井上道義作曲のミュージカルオペラ『A Way from Surrender〜降福からの道〜』世界初演

世界的な指揮者でもある井上道義が、太平洋戦争を挟んだ激動の時代を生きた両親の人生と自身のルーツを基に、10年の歳月を要して書き上げた自伝的オペラ。

井上道義と度々協演しているコロンえりかがここでも重要な役を演じている。

コロンえりかは、聖心女子大学・大学院で教育学を学んだ後、英国王立音楽院を優秀賞で卒業。同年ウィグモアホールデビュー。

モーツァルト・フェスティバル(ブリュッセル)、宗教音楽祭(フィレンツェ)、日英国交150年記念メサイア(ロンドン) でソリストを務めるなどオラトリオの分野に力を注ぐ。

代表曲は、父エリック・コロンが平和への願いを込めて作曲した「被爆のマリアに捧げる讃歌」。

東日本大震災以降、エル・システマジャパンの立ち上げから、ホワイトハンドコー ラス設立にも携わり、耳の聞こえない子どもを含む様々な障害を持つ子どもたちに音楽を教えている。現在エルシステマ・コネクト代表理事、ホワイトハンドコーラス NIPPONの芸術監督を務めている。セイコウ・イシカワ駐日ベネズエラ大使の夫人でもある。

1月21日(土)午後2時から

すみだトリフォニーホール公演:ミュージカルオペラ(オペラ形式)

1月23日(月)午後7時から

サントリーホール公演:演奏会形式

詳細は:https://www.njp.or.jp/concerts/230121 または オフィシャルFacebook

総監督(指揮/脚本/作曲/演出/振付)井上道義

タロー(テノール):工藤和真

正義(バリトン):大西宇宙

みちこ(リリック・ソプラノ):小林沙羅

マミ(ソプラノ):宮地江奈

エミ(メゾ・ソプラノ):鳥谷尚子

ピナ(ソプラノ):コロンえりか

アンサンブル

  • 鳥の声1/久美(ソプラノ):中川郁文
  • 鳥の声2/由利(ソプラノ):太田小百
  • 領事夫人(メゾ・ソプラノ):蛭牟田実里
  • ボテロ(メゾ・ソプラノ):芦田 琴
  • 絵の具の声/藤原(テノール):斎木智弥
  • 仁木(テノール):渡辺正親
  • 山田(バリトン):今井 学
  • 中村(バリトン):高橋宏典
  • ゲリロ(バリトン):山田大智
  • セイギスカン(バス):仲田尋一
  • 額縁の声(バッソプロフォンド):石塚 勇
  • 少年タロー:茂木鈴太
  • 米軍救護班(ダンス):ユリィ・セレゼン
  • 朗読:大山大輔
  • 4役アンダー:藤井玲南

Similar Posts

  • マンダリン オリエンタル Tea Time

    マンダリン オリエンタル ホテル グループが日本で最初に手がけた「マンダリン オリエンタル 東京」は、地上38階にあるカフェからの眺めが素晴らしい。落ち着いた雰囲気の中で、日本でも最高ランクのサービスでティータイムを楽しむことができます。おすすめはチーズケーキやティラミス、そして絶品のチョコレートデザートです。 ホテルは東京の歴史深い場所に位置しており、近代的な東京と伝統的な東京の両方を味わうことができます。日本銀行、三越本店、東京駅もすぐそばにあります。シーザー・ペリが設計した日本橋三井タワー(ホテル建物)には、179つもの豪華な客室とスイートルーム、10のレストランとバー、受賞歴のあるスパも完備しております。

  • HermèsFit 東京

    原宿で開催中の「HermèsFit 東京」は、遊び心あふれるフィットネスの世界でエルメスのアクセサリーとの新しい出会いを楽しむイベント。エルメスを代表するスカーフ”カレ”や、ベルト、帽子などを使ったエレガントなエクササイズを体験できるエスプリ溢れる空間。 フィットネスクラスに参加せず会場見学のみも可能で、毎晩のアートパフォーマンスやフォトジェニックな空間での新しいエルメスとの出会いを楽しめる。 イベントは、東京のほか、パリ、ロンドン、台北でも開催される予定。 公式HPでは、今回のイベントの為に考案された「カレ・ヨガ」「ベルト・ストレッチ」などのエクササイズ動画やオンラインレッスンも開催中。 HermèsFit 東京期間:10/30(土) – 11/7(日)時間 : 11:00 – 21:00会場: jing住所:渋谷区神宮前6-35-6入場:事前予約制・無料お問い合わせ:0120-375-040

  • インタビュー: 駐日エストニア特命全権大使 ヴァイノ レイナルト

    エストニア駐日大使、ヴァイノ・レイナルト氏へのインタビューの機会に恵まれた。電子国家として知られるエストニアの政府情報システムのデジタル化や、エストニアと日本の長期的な両国関係、そして両国にとって利益のあるプロモーションについて伺った。ヴァイノ・レイナルト氏は、2018年よりエストニア共和国の特命全権大使として日本に駐在している。日本駐在以前は、アメリカ合衆国、メキシコ、カナダで同国大使を歴任、またエストニア外務省にて貿易開発協力に従事した経験を持つ。大使夫人のカイレ・ユルゲンソンさんもまた、外交官として広報・文化外交に従事した経験があり、夫妻は正に、日本・エストニア関係を促進する名コンビだと言えよう。 駐日新大使としてミッションについてお話いただけますか? 駐日エストニア大使として、すでに3年余りの日々を過ごしている私は、もう新しい大使とは言えないかと思います。とても一般的ですが、駐日大使としてのミッションは、日本でエストニアへの興味を可能な限り促進することにあります。日本とエストニアのように、友好的であり、また、考えを同じくする国々の場合と同様に、ほとんどの問題に対する両国の関心は重なり合っています。また、エストニアは日本の関心と価値観を共有しておりますが、同様の課題にも直面しています。 当然のことながら、エストニアは国際的な規範及び日本と欧州連合間の合意に基づいて相互の貿易を促進していくことに関心を持っています。また、サイバーセキュリティやサプライチェーンの信頼性に関連する経済安全保障も同様に重要視しています。もちろん、さらに日本とエストニアは緊密に協力し、デジタル化とグリーン変革を最大限に活用したいと考えています。 同様の課題に直面しているエストニアと日本の共通の義務とは安全と安定、そして経済成長と幸福を提供することであり、さらに民主的で法の支配に基づく国際秩序を促進することでもあります。これらの価値観は普遍的であると信じてはいますが、常に普遍的に共有されているわけではありません。したがって、両国は世界秩序をお互いが望む方法で維持し、促進するための努力を強化する必要があります。 エストニアと日本の関係について教えていただけますか。 日本とエストニアは昨年1月にその100年に及ぶ友好関係を祝いました。第二次世界大戦前、日本とエストニアはお互いの関心を代表して行う名誉領事を任命し、1939年に日本はエストニアへの最初の全権公使を任命しました。第二次世界大戦の勃発により、これらの任務は適切に機能しなくなりましたが、1991年に日本とエストニアが公式の関係を回復した後にはこうした機能は継続されました。日本は1993年にタリンに大使館を、1996年に東京にエストニア大使館を開設しました。日本は世界のこの地域において、エストニアにとって最も重要な、志を同じくするパートナーです。ここ数年、両国はその関係にいくつかのハイライトを当ててきました。その中で最重要といえるのは、2007年に現在の上皇陛下(当時は天皇陛下)と上皇后陛下美智子様(当時は皇后陛下)がエストニアを訪問したことです。 更に両国の関係の特徴を示す一般的にも知られていることとしては、2012年に大相撲で優勝したエストニア出身の力士、バルトの存在も大きいです。 また、私のインタビュー記事をお読みくださる読者の多くは、すでに5年間に亘ってNHK交響楽団の首席指揮者を務めているエストニア出身の指揮者、パーヴォ·ヤルヴィを知っていらっしゃるでしょう。また、自動車ラリーのファンは、間違いなく、2019年にトヨタの世界ラリー選手権で優勝したのはエストニア出身のラリー·ドライバー、オィット・タナックをご存知でしょう。両国の友好関係はもちろん、こうしたハイライトと言えるニュースは皆さんの想像を超えるものでしょう。(コロナ前は)毎年10万人近くの日本人観光客がエストニアを旅しております。人口が約130万人の国にとって、これはかなりの数の旅行者を迎えたと言えます。このように両国の関係は政府間協力だけにとどまらず、両国の自治体も互いに連絡を取り合い、姉妹都市のような関係も築いています。驚くべきことですが、これらの最近の発展の多く事例とは、エストニアが成功裏に行ってきたデジタルトランスフォーメーションについて、より多くを学ぶことがあるという、日本の事業体の関心があってより推進されてきています。 エストニアの歴史について、教えていただけますか。 現代のエストニアの領土に人々が定住した最初の痕跡は紀元前8000年以上前にさかのぼり、エストニアという名前は既に紀元1世紀には見ることができます。12世紀の終わりには、教皇ケレスティヌス3世(Caelestinus III, 在位期間1106年 – 1198年1月8日)はエストニアでのキリスト教の布教を開始しています。エストニアの歴史はかなり深く研究されており、文書化もなされています。以来、エストニアの領土は、デンマーク人、スウェーデン人、ドイツ人、ポーランド人、ロシア人によって支配されてきました。エストニアの首都タリンは1154年に最初に見ることができますし、1372年にその歴史を遡ることができる世界で最も古い市庁舎の1つが現存しています。中世においては、15世紀から19世紀の間の商取引ですが、エストニアはヨーロッパを支配したドイツを拠点とするハンザ同盟の重要な貿易の中心地でした。世界で最初の自由貿易地域と言えるでしょう。 伝説では、クリスマスツリーとは、もともとエストニアのタリンで最初に作られ、1441年にリヴォニアの商人協会のブラックヘッズ兄弟により、タリン旧市街広場に運ばれました。もしこの伝説が本当であるなら、ヨーロッパの街の広場に置かれた最初のクリスマスツリーということになるでしょう。近代の歴史については、1918年2月24日にエストニア共和国が宣言され、1920年6月に最初のエストニア憲法が採択されました。エストニア共和国は国際的に認められ、1921年に国際連合のメンバーになりました。エストニアの独立は1940年まで続き、その後エストニアはソビエト連邦に占領され、1941年にナチスドイツに占領され、1944年に再びソビエト連邦に占領されました。その後、1991年8月、エストニアは再び独立をはたし、こうして国際的な認知を取り戻しました。以来、歴史的な観点から、エストニアは国際社会での正当な地位を回復することができ、2004年に欧州連合とNATOのメンバーになり、2011年には、欧州単一通貨であるユーロを採用しました。 1.デジタル化 エストニアはデジタル化政策を次々と進めており、世界の最前線の「電子国家」として知られています。その方針、AIと人との関係、今後の展開についてお話いただけますか? 実際、エストニアはワイアード·マガジンからも「世界で最も先進的なデジタル社会」としてブランド化されています。エストニア人は、時間とお金を節約するため、効率的で安全で透明なエコシステムを構築した先駆者と言えます。エストニアの電子政府とデジタルサービスの後ろ盾となるのは、安全なデジタルIDです。エストニアの130万人の市民のほぼ全員が、IDを取得しておりますが、これは単なる合法的な写真付きIDをはるかに超えるものでもあります。まず電子環境でIDの確実な証明として機能し、欧州連合内の渡航文書としても機能します。 IDカードは、エストニアのすべての安全な電子サービスへのデジタルアクセスを提供し、面倒な官僚的形式主義から人を解放し、銀行業務や事業運営、文書への署名、デジタル処方箋の取得など、日常業務をより迅速かつ快適にするという機能を備えています。前回の全国総選挙では、エストニア人のほぼ44%がインターネット投票を使用し、世界110か国からオンラインによる投票が行われました。エストニア人の98%はデジタルIDカードを持っており、サービスの99%はオンラインでのアクセスが可能です。実際、エストニアでは結婚や離婚以外にも、技術的に可能なすべての公共サービスをオンラインで行うようになっています。市民は、事実上すべての公共サービスをeサービスとして利用できるようになったため、さまざまな公共サービスの中から、都合のよい時間と場所でeソリューションを選択することができます。ほとんどの場合、サービスを提供する官庁などのエージェントに物理的に接触する必要はありません。電子政府の効率は、一般の人々や役人が節約する労働時間の観点から最も明確に表されます。こうした取り組みがなされていなければ、官僚主義や文書の処理に多くの時間は費やされていきます。すべての公共および民間部門のサービスでの電子IDの幅広い使用は、私たちのデジタル成功の基盤となっています。 デジタルIDを使用することによって、自分自身で認証を行うことができ、完璧に法的に有効な方法をもって、政府の手続きなどおからビジネス契約、市民からの州への申請まで、すべてをデジタルで署名することができます。法的に、デジタル署名は手書きのものと同じく扱われ、認められています。主として時間の節約があげられますが、こうした取り組みを通じて効率が向上し、経済全体でデジタル署名することによって、少なくともGDPの2%程度を毎年節約することができています。ちなみに、東京タワーと同じくらいの高さに及大量の紙を毎年節約できることにも繋がりますので、環境にもやさしいです。エストニアのユーザーが愛するデジタルガバナンスにはもう1つの興味深い機能と、読者が興味深いと感じる可能性がありますが、それは州が市民に同じ情報を2回要求することを許可しないという「1回限りの原則」の存在です。つまり、たとえば地方自治体に住所を提出する場合、自動車局は運転免許証を更新するときに再度住所を尋ねることはできなくなっています。 または、社会保障局がフォームに再度記入するように求めない場合でも、受け取る資格のある手当を請求することができます。どの政府機関においても、どの部門でも、自分のデータベース、または他の機関のデータベースにすでに保存されている情報を市民に繰り返して記載することはできなくなっています。また、日本のマイナンバーというデジタルIDカードは、エストニアの専門家と緊密に協力して設計されており、大部分はエストニアの経験に基づいていることもまたお知らせすべきことでしょう。…

  • オランダ王国大使公邸 チューリップガーデン一般公開

    4月8日(金)・10日(日)の2日間限定開催 7年ぶりにオランダ大使公邸のチューリップガーデンと大使公邸内部が一般公開された。 ペーター・ファン・デル・フリート駐日オランダ王国大使は、今回のチューリップガーデン一般公開について、「日本でも、オランダを象徴するチューリップが沢山の方に愛されている事を知り、とても嬉しく思っています。今回の一般公開イベントによって、春の到来を皆さまと共に楽しむ事ができれば幸いです」とコメントしている。 両日ともにこの一般公開を待ちに待った人々が早朝から列をなした。その列はとても長くなり、神谷町駅まで続いていた (350メートル)。午前10時の開門から、ファン·デル·フリート大使に迎えられ、多くの人々は大使公邸の庭園、公邸内部を鑑賞した。 現在の大使公邸は、その前の建物が1923年の関東大震災で倒壊したため、1928年に再建築された。建築家ジェームズ・マクドナルド・ガーディナーと上林敬吉が手掛けたこの邸宅はクラシックな風情が残り、天井に残された鏝絵などがとても美しい。庭園内に飾られた徳川家康からの書簡からも、オランダと日本の長期に亘る友好関係を感じ取ることができる。また、19世紀に描かれたオランダの画家、ヘンドリック・ウィレム・メスダッハによる絵画と共に、オランダの現代的なデザインの家具、有田焼の陶磁器などが美しく展示され、特別な雰囲気を醸し出している。 70種類に及ぶ美しいチューリップが咲く庭園と遊歩道を歩き、ひと時のオランダの雰囲気を楽しんだ訪問者は、4月8日が約2400名、4月10日には3000名に登る。 このような日本の人々との交流イベントを企画してくださったペーター·ファン·デル·フリート大使と大使館のスタッフには心からの御礼を申し上げたい。来年もぜひ継続していただきたい素晴らしいイベントだった。 For more information visit the Dutch Embassy in Tokyo Read more: 女性が活躍する国、ジャマイカからのメッセージ

  • 名建築家によるデザインの大使館で文化交流会開催

    この度、クウェート大使館において、アラブ、ヨーロッパ、アジアの文化を楽しむ文化交流会が開催された。 このイベントを企画したのはハサン·モハメッド·ザマーン·クウェート大使のマナル夫人。マナル夫人は、文化、芸術に造詣が深く、色々な素晴らしい文化交流会を今までも開催してきた。 この文化交流会では、辻星野(株式会社京鐘取締役)の尽力により、イタリア人デザイナ―による日本のサンゴなどを使った帯どめ、イタリアのジュエリー、着物、打掛なども紹介された。 外国人には、黒留袖、帯などをリフォームしたドレスなどもとても人気が高く、自分でデザインし作る人達も多い。この文化交流会では、北爪由紀夫元カタール日本大使の北爪裕子夫人が着物とその歴史、柄、格式を訪れた外国人に熱心に説明、日本文化の理解につなげた。 マナル夫人が心を尽くしたアラビア風のティータイムも準備され、参加者は日本ではなかなか味わえない本格的なアラブのお料理とお菓子を楽しんだ。 また、クウェート大使館は日本が世界に誇る名建築家、丹下健三によって設計されたことでも知られる。この度の文化交流会は、建物をじっくり見るだけでも大きな価値がある。空間の美、装飾などに丹下健三の設計による「建築の美」が施され、本当に素晴らしい。 ザマーン駐日クウェート大使は、大使館の建物が持つ価値、歴史的な意味を非常に尊重し、この素晴らしい建物を大切に保存しようとしている。 在日クウェート大使館HP 【関連記事】 アラブ・フード・バザールでガザ支援

  • かこさとし展 子どもたちにつたえたかったこと

    日本を代表する絵本作家かこさとしの全貌をたどる展覧会が、現在、渋谷Bunkamura ザ・ミュージアムで開催されている。 日本の子どもたちのほとんどは、かこさとしの作品を読んでいるはずだ。 かこさとしは、1926年生まれ。多感な中学生時代に戦争を体験し、レオナルド・ダ·ヴィンチに影響を受け、一度は航空士官を目指すが、強度の近視のために諦める。その後、東京帝国大学工学部応用化学科入学するが三重県に疎開し、終戦を迎えた。その間に、東京の自宅は東京大空襲に襲われ消失していた。 戦後は世の中の価値観が全く変わってしまい、かこさとしは絶望感に見舞われる。しかし、彼はその時代に「セツルメント活動」に出会う。「セツルメント活動」とは、「人間として平和を愛し」、「苦しむ人々のために献身的に尽くす」、「生活の苦難打開に資することを念願する」という理念を持っていた。その当時のことを彼は、「あてもなく彷徨っていた僕の背中をゆっくり前に押してくれた」と語っている。この考えが、後のかこさとしの活動には大きな影響を与えていく。 「セツルメント活動」に参加したかこさとしは、工場労働者の子どもたちの為に自ら紙芝居を描き、上演している。いずれの紙芝居も、労働者の生活を反映し、どこか物悲しい。その活動を経て、1959年の『だむのおじさんたち』で絵本作家デビューし、かこさとしは次々と名作を生み出していく。 この展覧会には「だるまちゃん」「からすのパンやさん」など、日本人なら一度は手にしたことのある絵本の原画、デッサンが数多く展示されている。その一つ一つは驚くほどち密に描かれている。科学を学んだかこさとし独自の自然の観察眼、工場や歴史に対する忠実な描写が反映されている。また、働くことの尊さ、平和、共存、愛情などがすべてに共通するテーマだ。そのテーマは決して押し付けがましいものではない。しかし、絵本を読んだ子どもたちの心に、自然に、何か温かいものをもたらしていることに気づく。 展覧会最後に展示されている「宇宙進化地球生命変遷放散総合図譜」(生命図鑑)は圧巻だ。これはかこさとしの最期のメッセージでもあり、曼荼羅でもある。かこさとしがすべての人に伝えたかったことは、生命はみな同じく尊いということではないか。 よりうつくしく よりたくましく よりすこやかに かこさとしが残したメッセージは実にシンプルだ。だれもがそうありたいと願うが、その実現はどんなにむずかしいことだろうか。 この展覧会で、改めて平和と平等、人権、尊厳の大切さに出会える。 開催期間:2022/7/16(土)~9/4(日)  ※7/26(火)休館 会場: Bunkamura ザ・ミュージアム 開館時間:10:00-18:00(入館は17:30まで) 毎週金・土曜日は21:00まで(入館は20:30まで) ※金・土の夜間開館につきましては、状況により変更になる場合がございます。 【関連記事】 『かこさとし展 子どもたちに伝えたかったこと』