ハリウッド・リポーター&ハーシー・シガ・グローバル
THRは、日本に再びエンターテイメント誌を進出させることを発表しました。2021年10月1日よりHSGはPR、デジタル、イベント広告、および日本全国のスポンサーシップを含むTHRの営業を担当します。
駐日インド大使館主催:6月 21日(金)築地本願寺にて 心と身体が整う早朝ヨガイベントを開催 駐日インド大使館(東京都千代田区九段南 2-2-11)は、国連が定める「International Day of Yoga (国際ヨガの日)」(6月 21日)に東京築地本願寺にて、心と身体が整う早朝ヨガイベントを開催する。 インド政府 AYUSH 省が認定する駐日インド大使館専任ヨガ講師がヨガ実習を行い、精神と身体、思考と行動の一体化を体現する。 インド、アジアの古代仏教建築を模したオリエンタルな雰囲気の築地本願寺にて、インド発祥のヨガを体験出来るイベントとなっており、ヨガ経験者、未経験者共に参加可能。 国際ヨガの日とは 国連は 177ヶ国と地域の賛同を得て、6月 21日を「International Day of Yoga(国際ヨガの日)」として制定。ヨガを実践することで得られる多くの恩恵について世界中で認識を高め、心身のつながりを向上させ、誰もがより健康に、より幸せに、ストレスフリーな未来を創造することを目的としてる。 国際ヨガの日は、ヨガが心身にもたらす恩恵について感謝し 、 世界中でヨガを楽しむ日とされている。 ■イベント概要開催日時:2024年6月21日(金)午前7時〜8時 (開場:午前6時30分) 開催場所:築地本願寺(東京都中央区築地 3-15-1) 参加費:無料 (要事前登録) 参加登録:リンク https://shorturl.at/swAL9…
5月2日、「バンダ・エル・レコド・デ・クルス・リサラガ」来日イベントがメキシコ大使館にて開催された。 1938に結成し、シナロア州の代表音楽を世界に広め続けるバンド「バンダ・エル・レコド・デ・クルス・リサラ(バンダ・エル・レコド)」は今回で22年ぶりの2回目の来日となる。 「バンダ・エル・レコドの音楽を届けるため、22年ぶりに戻ってこれて嬉しい 」と話したヴォーカル担当リッキー・ヨクピシオさん。このイベントを主催したメキシコ大使館そしてメルバ・プリーア駐日メキシコ大使にも感謝の気持ちを表した。 バンダ・エル・レコドは多くの代表曲を披露し、大使館会場は大きな歓声で満たされた。 5月3日から5日の間、お台場デッキで開催された第5回「ラテンアメリカへの道フェスティバル」でも特別ゲストとしてパフォーマンスをしたバンダ・エル・レコド。全世界で愛され日本でもたくさんのファンに迎えられたバンダ・エル・レコドの3度目の来日も期待される。 【関連記事】
10月初旬、母国チュニジアのミス・インターナショナル大会で優勝したマリアム・ベン・アブラグ(ミス・チュニジア)にインタビューする機会を得た。このインタビューでは日本で開催されたミス・インターナショナル世界大会に出場するための準備、自らの考え、目標、そしてすべての若い女性に伝えたい重要なメッセージについて語っている。 印象的なミス・チュニジアからのコメントは「誰の意見に惑わされることなく、自らの可能性を決めていこう」というものであった。 インタビュアー:何かに動かされたように日本にいらしたのでしょうか。感想をお知らせください。 ミス・チュニジア:いつも日本に深い憧れを抱いていました。日本人は礼儀正しく、知性、そして優れた組織力でよく知られています。日本人の継続的なイノベーションは日々世界を変えていますね。 私は客室乗務員をしておりますので、この大会に参加する前から、大阪を含む日本を訪れる機会がありました。 インタビュアー:2023年10月26日開催の2023年のミス・インターナショナル世界大会に向けて、どのように準備しましたか? ミス・チュニジア:毎日、必須ビタミンを摂取し、スキンケアを行っていました。 このような初めてのインタビューの機会をいただけてうれしく思います。幸運なことに、私はスパ・トリートメントを含むさまざまなスポンサーのサポートも得ることができました。他の候補者との交流は前向きな経験であり、短期間ではあってもまるで家族のような強い絆を築くことができました。 インタビュアー:世界大会の後には日本を観光する機会はありましたか? ミス・チュニジア:残念ながら観光する自由時間がありませんでした。コンテストの後はすぐに仕事に戻る必要がありました。私の休暇は10月11日から26日まででしたので、28日のフライトでドバイに戻りました。ですが、改めて観光のために日本を訪れるつもりです。この度は、 鎌倉やスラムダンクの舞台となった駅前のビーチなどを散策する機会がありました。熱心なアニメファンとして一生に一度の瞬間でした。 インタビュアー:あなたはミス・インターナショナル世界大会に明確な目的を持っていらしたと思いますが、その目的について詳しくお話ししていただけますか? ミス・チュニジア:はい、その通りです。ミス・インターナショナル世界大会に参加する目的とは、単なる競争を超えたものでした。それは私の人生の中核的な側面と言ってもいいでしょう。私の夢とは男女平等であるということが単なる「決まり文句」ではなく、実際に現実となる世界を作り出すことです。ジェンダー平等は女性だけの問題ではありません。むしろ世界的な問題と言えます。国家が女性への投資を怠ると、活用できる人材が限られ、国家の成長が阻害されてしまいます。私たちはこの問題に直面しており、解決策を見つけなければなりません。私たちは人口の50%だけを考慮にいれることがありますが、残りの50%はどうでしょうか。残りの50%とは女性を意味しています。女性は世界がまだ十分に活用しきれていない知性とスキルを持っています。これらの問題の解決するため、私たちはまだ可能性の表面を掘り出すことさえしていません。多様性を認識し受け入れることは、技術革新と進歩を促進するために非常に重要です。 インタビュアー:あなたにとって、ミス・インターナショナル2023の代表として日本で世界大会に出場することはどのような意味を持っていますか? ミス・チュニジア:大変意味深い質問です。私はチュニジアに深い愛情を持っています。日本やオーストラリアなどを含む世界中の多くの美しい場所を旅行する機会に恵まれましたが、チュニジアは心の中で特別な場所です。特に子供時代の大切な思い出でいっぱいです。私はチュニジアが世界に示すことのできる計り知れない潜在力を持っているとも強く信じています。チュニジアはノーベル化学賞を受賞したムンジ・バウェンディ博士や、東京オリンピックの400m水泳で金メダルに輝いたアハメド・ハフナウイのような人物を輩出してきました。チュニジアには、世界に提供できる素晴らしい頭脳と、優れたアスリートがたくさんいます。つまり私が日本に来たのは、チュニジアを代表して、チュニジアはさまざまな分野で優れており、また、そのことを世界に示すためでした。 インタビュアー:あなたは日本文化と日本における女性の地位についてある程度の知識をお持ちのようですね。日本の女性たちにさらなる平等とエンパワーメントを求めるよう促すにはどうすればよいとお思いですか?この点において、日本とチュニジアで類似点や相違点があるとお思いですか? ミス・チュニジア:私はチュニジアに生まれたことを幸運だと思っています。その理由はチュニジアは、特に一部の近隣諸国と比較した場合ですが、女性の権利において大きな進歩を遂げてきたからです。日本でも女性の権利に関しては日々進歩が見られます。男女共同参画局のような団体の努力にも感謝しています。マツダでは研修会の開催など、男女共同参画の推進に積極的に取り組んでいます。こうしたワークショップは、STEM労働力(科学、技術、工学、数学)の分野に焦点を当てており、若い女性が参加することによって、マツダのエンジニアから学ぶことを奨励することを目的としています。これは伝統的に男性優位の分野における女性の包括性とエンパワーメントに向けた前向きな一歩と言えるでしょう。確かに 日本の状況には日本特有の課題があるかもしれません。しかし、チュニジアを含む世界中の女性の願望と、共鳴し合える男女平等に向けた進歩という共通の目標があります。 インタビュアー:最後に読者にメッセージをお願いします。 ミス・チュニジア:はい、もちろん。すべての人々に、特に若い女性に聞いてほしいと思う力強いメッセージを持ってきました。もっと若い頃には私には夢がありましたが、それを達成できるかどうか疑問に思うこともありました。おそらくこれらの夢は、あまり裕福ではない家庭に育った私のような人間にとっては相応しくないものではないかとも思いました。ですが私は疑似宇宙飛行士であり、神経心理学者であり、ミス・インターナショナル・チュニジアであり、そしてこの場におります。私の背を押して前進させてくれる人はあまりいませんでした。ですが両親とわずかな人々は 私を信じてくれました。ですので私はすべての若い女性に「自らの可能性は他の人の意見に惑わされず、自分を信じることが大切。」とお伝えしてまいりたいと存じます。 【関連記事】
1991年に旧ソ連から独立したトルクメニスタンは32回目の独立記念日を迎えた。トルクメニスタンは、ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、タジキスタンと共に中央アジアの5つの国として日本でもよく知られており、古くからシルクロードを介して文化交流、物資の往来が盛んな地域であり、現在もヨーロッパとアジア、中東を結ぶ重要な十字路にある。 現在日本で特命全権大使を務めているのはアタドゥルディ・バイラモフ閣下だ。昨年10月に天皇陛下に信任状を奉呈したばかりだ。しかし駐在が決まって以来、日本語を猛勉強しており、この日のスピーチもすべてよどみない日本語で行った。 独立記念日のレセプションには、バイラモフ大使の広い交友関係を示すように各界から著名人が集まった。日本・トルクメニスタン議員連盟から議長を務める松下新平参議院議員、深沢洋一衆議院議員も出席した。昨年からの7か月間で国会議員のトルクメニスタン訪問が実現しており、日本との深い関係がうかがえる。また、日本の貿易関係、商社からも多くの役員が顔を揃え、豊富な天然ガスなどの資源に恵まれた国らしい一面を垣間見ることもできた。 旧ソ連から独立を果たして以来、トルクメニスタンは永世中立国として、平和と世界のすべての国々を尊重してきた。現在はセルダル・ベルディムハメドフ大統領が就任しており、現大統領も迷うことなく永世中立を基本とする平和国家としての道を歩んできた。外交においても中立という立場から世界の平和と安全の強化、善意に基づく友好と友愛の拡大を優先的な方向として掲げている。 日本との関係は、昨年外交樹立30周年を迎えている。30周年を境にトルクメニスタンと日本との関係は新たな段階を迎えている。トルクメニスタン大統領のセルダル・ベルディムハメドフ閣下は政治外交貿易、経済、人的交流に関してトルクメニスタンと日本の友好関係をさらに強化することを最重視している。また、科学、スポーツ、文化交流などにおける文化人道的関係も順調に発達している。この分野で顕著なのは日本語学科、学生の急増ではないか。トルクメニスタンでは2016年から6校のカリキュラムに日本語が導入されており、現在は13,360名に上る学生が日本語を学んでいるという。 日本でも世界にたった3000頭しかいない「黄金の馬」と称されるアハルテケを飼育している牧場が青森にある。アハルテケはトルクメニスタン原産で、シルクの様な毛並みを持つ抜群のスピードと持久力を併せ持つ馬であり、アレキサンダー大王が乗ったブケファロスもこのアハルテケではないかと推測されている。 今回の独立記念日では、アハルテケ牧場の社長を務める青江美智子氏が長年の功績をたたえられ、トルクメニスタン大統領から馬の繁殖に関する賞を受賞し、独立記念のレセプション内で授賞式が行われた。 独立32周年を迎えたトルクメニスタンは古い歴史をもつ新しい国だ。これからもバイラモフ大使を中心としてトルクメニスタン大使館は日本で活動を持ち、より国としての知名度を上げ、交流を深めていくことだろう。また、トルクメニスタンの美しい国家、人々の心をしったより多くの日本人がトルクメニスタンを訪れるに違いない。今後の新しい外交に期待したい。
二つの大きな記念すべき節目を祝うため、ショーナ=ケイ・リチャーズ駐日ジャマイカ大使は、メイヴィスバンクコーヒーファクトリー マネージングディレクター & CEO ノーマン・W・グラント氏と共に、ロイヤルパークホテルでディナーを開催し、上島達司 AJIJCジャマイカコーヒー輸入協議会会長(UCC上島珈琲株式会社代表取締役名誉会長)、MBCF副会長のマーク・マッキントッシュ氏らコーヒー貿易関係者を招いた。 現在、ジャマイカの高品質なブルーマウンテンコーヒーの生産及び輸出をするMBCFは1923年にヴィクターとエドナ・マンによって創業された。その第一歩を踏み出してから1世紀の間、MBCFはコーヒー生産農家、従業員、農家のファミリーに安定した仕事と生活を与え、最高品質のコーヒーを共に作ることでジャマイカの繁栄を築いてきた。コーヒーは道を開き、ジャマイカの投資、貿易と国家の発展に大きく貢献している。 日本とブルーマウンテンコーヒーの関係は1953年にMBCFが日本のキーコーヒーに三樽のグリーンビーンズを輸出した時に始まる。日本はジャマイカが英国から独立した1962年8月6日同日に国家承認を行い、1964年3月に正式な外交関係を結んでいる。その10年も前からブルーマウンテンコーヒーによる民間外交は始まっており、ブルーマウンテンコーヒーは初代駐日ジャマイカ大使とさえ言うことができる。 ブルーマウンテンコーヒーは日本人に深く愛されてきた。 そうしたマーケットの早期開発は、UCC上島珈琲株式会社の創業者上島忠雄氏とキーブル・マン氏の先駆的ともいえるパートナーシップの締結による。 現在もそのパートナーシップは上島忠雄氏の子息でもある現会長の上島達司氏に引き継がれている。 今年で70年を迎えるブルーマウンテンコーヒーと日本の関係は非常に大きく育ち、1953年の初輸出額は300米ドルであったが、現在では輸出額は年間平均2000万ドル相当に増加している。 日本市場はジャマイカブルーマウンテンコーヒーグリーンビーンズ輸出の75%を占めるほどに育った。 今年100周年を迎えたMBCFは、極上のブルーマウンテンコーヒーの輸出をより増加させていくとともに、コーヒー入りチョコレートなどの新商品の発売も開始し、更なる発展を進めている。創業時からコーヒー農家、生産者、スタッフと共に歩み、ビジネスパートナーを大切にするウィンウィンの姿勢は変わらないが、MBCFはジャマイカを代表するグローバルブランドとなっている。 こうしたウィンウィンの関係を築くために、歴代の駐日ジャマイカ大使が大変な努力を続けてきたことは決して無視できない。現在のショーナ=ケイ・リチャーズ大使もまたブルーマウンテンコーヒーのことを先任者と呼ぶ。 来年ジャマイカと日本のパートナーシップは還暦(60周年)を迎える。もちろん外交関係60周年(還暦)はキングオブコーヒーで祝杯を挙げることだろう。 この度のディナーも、最後は極上のブルーマウンテンコーヒーで締めくくられた。その一杯がどれほどおいしかったことか。これぞブルーマウンテンコーヒー!と誰もが思ったに違いない。 【関連記事】
香川県にある金刀比羅宮には、美しい建造物、円山応挙ら、日本を代表する絵師による数々の襖絵など、日本の美を満喫する要素がすべて詰まっている。 瀬戸内海に浮かぶ直島を訪れる海外からの旅行者は多いが、金刀比羅宮まで足を延ばす観光客はまだまだ少ない。瀬戸内海を訪れたせっかくの機会、少し足を延ばして、その素晴らしさを見ていただきたい。 金刀比羅宮は、瀬戸内海を望む瀬戸内海国立公園、名勝、天然記念物の指定を受けた景勝の地である象頭山の中腹に鎮まっている。 創建年代は明らかではないが、奈良時代(10世紀初期)にはじまった神仏習合による影響を受け、室町時代頃には金毘羅大権現として幅広い信仰を集めていたとされている。 19世紀中頃以降は、特に海上交通の守り神として信仰されている。荘厳な本殿に参ると、金刀比羅宮が長く見守っている瀬戸内海を見渡すことができる。 ここで紹介する書院はふもとから本殿に上がる中腹にある。 表書院は入母屋造、檜皮葺で、萬治年間(1658‐1660)に建てられたと言われている。 この書院は金毘羅大権現に奉仕した別当金光院が、諸儀式や参拝に訪れた人々との応接の場として用いた客殿という役割を持っていた。金刀比羅宮を訪れる当時の皇族、将軍、大名らを迎える為、その建物の内部の連なる5つの畳部屋の襖には、円山応挙による秀作が残されている。 円山応挙は江戸時代中期の京都画壇を代表する画家であり、円山派の始祖である。 それまでの師による絵手本を見ながら描く伝統的な手法から、実物を観察しながら描く写生の技術を取り入れた。 その応挙が晩年ともいえる50代に取り組み、天明7年(1787年)と寛政6年(1794年)の二度にわたって制作した襖絵「鶴の間」「虎の間」「七賢の間」「上段之間」「山水之間」はそれぞれに違った用途を持つ空間である。 その中でもとくに有名なのは、「水呑みの虎」と「八方にらみの虎」を含む「虎の間」ではないか。 「虎の間」では、応挙は襖16面と言う大きな空間に8頭の虎を描いている。応挙が活躍した時代、日本には虎がいなかった。当時、日本の絵師は虎を描いた絵画、輸入された毛皮や猫を手本として虎を描いた。しかし、応挙は骨の構造を把握することの重要性を説いた絵師でもあった。応挙は中国、朝鮮半島からの虎の画、毛皮などを入手し、解剖学を基礎に虎の姿を想像して描いたとも言われている。そうした当時の事情がある為か、応挙が描いた虎たちの姿は、後年に描かれた虎の姿と比べると、どこか小動物のような可愛らしい印象さえも受けることがある。 応挙の虎たちの様子は様々であるが、いずれも奥行きがない空間に描かれているため、あたかも襖から飛び出してくるような迫力ある動きを見るものに与えている。 川面に顔を寄せて水を吞む2頭の虎は、「水呑みの虎」と呼ばれ、松の木の下で正面を見据えるように描かれた虎は「八方にらみの虎」と呼ばれる。 虎が実在しなかったとは言え、そこには応挙の中で昇華された臨場感に満ちたまぎれもない本物の虎が存在する。応挙晩年の傑作と言われる理由が伝わってくる。 この表書院には、これらの見事な襖絵の他にも見どころが多い。 金刀比羅宮の蹴鞠は香川県の無形文化財に指定されており、表書院前方に広がる庭は蹴鞠を行う会場である。 その中には15メートル四方ほどの平坦な鞠懸(まりがかりー蹴鞠のコート)がある。 その四隅には松、柳、桜、楓の式木が植えられており、それぞれに方角を示している。これらの木はいずれも二股になっており、これは蹴鞠の神、精大明神(しらげだいみょうじん)が宿る依代(よりしろ)であるため、神様が座りやすいようになっているのだという。 金刀比羅宮は、香川県琴平町の象頭山に鎮座する神社として人々の信仰を集め、その土地の人々の心を支えてきた。 更にはこの地の芸術の中心としての役割も担い、表書院、奥書院には伊藤若冲、円山応挙らの江戸時代に活躍した画家の作品が多く所蔵されており、さらには日本で最初の洋画家、高橋由一の作品も多く所有している。…