母と娘の物語
アルジェリアの女性の地位向上と教育のために、ファティア·ベッタハールという女性が大きな貢献をしたことは、日本ではあまり知られていない。祖国アルジェリアでは、国会議事堂などを含め、その女性の肖像、写真を見る機会はとても多い。その偉大な女性は、今年の夏、波乱に満ちた生涯を閉じた。その死を惜しむ声はアルジェリアだけではなく、アフリカ全土で起きている。
ファティア·ベッタハール夫人の生涯を、ベッタハール夫人の長女であり、駐日アルジェリア特命全権大使モハメッド・エル・アミン・ベンシェリフ閣下の夫人でもあるアミラ·ベンシェリフに聞いた。
ファティア·ベッタハール
私の母、ファティア·ベッタハールが2021年8月4日に逝去いたしました。私達親娘は、アルジェと東京に離れていても、毎晩タブレットを通じてやり取りをしていました。突然逝ってしまった母。改めて今、優しい母として、また、アルジェリア、アフリカの女性のための母としての激動の人生とその貢献を思い出しています。
私の母ファサは1936年8月27日にシリアのアレッポで生まれました。母はシリア人で、父はアルジェリア人、当時のアルジェリアは植民地という環境にありました。でも、母は父の国であるアルジェリアを生涯、こよなく愛していました。
母はアルジェリアがまだ植民地時代の、不安と偏見に満ちた、不正がまかり通るような時代に学業を開始しました。母の学ぶ姿勢は常に真剣で、良い成績を収めており、アルジェリア第2の都市であるオランの師範学校にも通いました。母は自分の意見を持ち、雄弁な女学生だったそうです。そうした彼女の勤勉さと勇気は、フランス人にも認められ、尊敬を得るまでに至ったと言います。
母はオランの師範学校を卒業してからも研究を続け、1955年に名誉ある科学の学士号を取得し、更に専門分野での研鑽を積みました。1970年から1971年にかけては法律の勉強も始め、その後、教師としてキャリアを開始しました。その後、アルジェリアは長い独立戦争を経て、フランスの植民地から独立をはたします。当時、植民地化の中、アルジェリアの女性の識字率は低く、多くの女性は文字を読むことができませんでした。
女性の識字率をあげるという目的もあり、母はアルジェリア女性全国連合(UNFA)に参加し、組織の他のメンバーと共に、アルジェリアの女性の教育·職業訓練に力を注ぎました。母は師範学校で教鞭をとるという、当時のアルジェリアではまだ珍しい存在でしたが、より学ぶチャンスもあったはずです。しかし、母は大学での勉強をあきらめ、都市部や農村部でのアルジェリアの女性の教育に専念することを希望し、その活動に邁進してきました。
その後、母は教育委員長、学校検査官として教壇に立ち、教師の組合のオラン地区の委員長も務め、後にアルジェリア女性全国連合(UNFA)の委員会にも選出され、その後オランのUNFA事務局長として平和運動も推進していきます。
母は社会的に不利な立場にある女性に知識を与え、女性が自主性を獲得し、家の開発を促進できるようにすることの重要性を理解していました。特に、女性の教育のために裁縫学校、タペストリーを作る織物の学校の創設に参加し、女性の社会進出を進め、アルジェリアの社会に活力を与え、その発展に貢献していきました。
母は先見の明もあったように思います。早くから子供の出生間隔をあけることにも注目し、産児制限、避妊などを含めた健康政策の基礎作りにも参加しました。これらの公共政策は、1967年にアルジェ、オラン、コンスタンティンの各都市に3つの出産間隔センターを設立することにも繋がっていきます。
アルジェリアの独立後、憲法が起草されたとき、教育への考え方は、平等主義の論理をもって、性別による差別なしに、だれにでも当たり前に与えられる権利となりました。しかし、母を含むこうした女性の教育をより広げていくために尽力している人達は、次の世代のアルジェリアの女性が、より平等で平等な社会でその能力を開花させ、責任のある地位と立場につくためにも、活動を停めることはありませんでした。
母はどんな時も女性の教育、社会進出を支援する活動を停めることはなく、その活動はアルジェリア全土に広がり、母の活動は評価され、UNFA事務局長などを含む要職を務めてきました。
さらに母たちが推進する活動は女性の可能性を目覚めさせ、アフリカ全土の女性を支援することとなり、多くのアフリカ全土の女性のライフスタイルにプラスの影響を与え、更には政治的な方向性にさえも影響を与えることができました。
母は世界をリードする存在として、アフリカ大陸を縦横無尽に横断し、町、村、遠くの土地を訪れました。当時、こうした役割をもった女性はアルジェリアにもアフリカ全土にもいませんでした。
母はアフリカの女性の進歩と保護のためにあらゆる場所を旅して人々に会い、探求を続けていました。それは母の人生にとって不可欠な部分でありました。
母の活動は世界的にも評価され、各国の重要な女性組織のトップにも選出され、平和活動、アフリカとアジアの人々の連帯のための会議(PASPAA)のシンポジウムにも何度も招かれ講演を行っています。
また叙勲という国家からの栄誉にもあずかり、更にはキューバ、ギニア、マリ、アフリカ統一機構からも勲章を授与されています。その他にも多くのシンポジウムに出席し、講演を行い、母は常に女性の地位の向上に尽力し、同時に自らの後継者を育てていきました。
母がパイオニアとして活動した女性の地位向上、教育の支援などの活動は、その後多くの女性が同じ志をもって活動し、アフリカ各国の女性の教育レベル、地位は改善されています。
私生活では、1956年12月に、私の父、エルハビブ·ベッタハールと結婚し、5人の子供に恵まれます。私はその2番目として生まれました。両親は教育熱心で、5人兄弟は大学で学びました。母は子育ての間もキャリアを積んでいきましたが、同時にとてもよい母でもありました。愛情深い母であり、家事もこなす妻であり、年老いては、12人の孫にも恵まれました。
どうやって活動と家庭生活を両立していたのだろうと思いますが、母はなにが重要かを良く理解していました。生涯を通し、女性をリードする存在であり続けた母も、家庭では5人の子供達の母として、妻として、人生の小さなことに感動し、子供の笑顔、庭でのバラの開花、プロとしての成功、そして彼の子供たちの個人的なことにも歓喜するような、謙虚な女性でした。子供たちは困難に直面した時、母のサポートとアドバイスが得て強められ、人生の課題に対処するため力、勇気、熱意を得ていかれたと思います。
世界を飛び回っていた母ですが、よく旅や冒険についても語り、旅をして人々に巡り合うことで学んだことを教えてくれました。
引退後の母は、12人もの孫に恵まれ、活動を通じて知り合った、母を慕う多くの人達に囲まれて暮らしていました。どんなときにも貧しい人々に目を組め、自分の持っているものを惜しげなく、生活に困る人達に分け与えていました。
常に謙虚で深い思いやりを持ち、できればみんなを助けたいというのが生涯を通じての母のポリシーだったと思います。どんなに難しい状況に陥っても、お互いにいつかは理解し合えるということを常に望んでおり、その姿勢はいつしかすべて良い方向に解決することの基本になっていきました。
母が天に召され、私達は深い悲しみの中にあります。母が全生涯を通じて貫いた女性の地位の向上、教育による生活レベルの向上は、今、アルジェリア、アフリカ全土で花開いています。こうして愛する母の生涯の軌跡を皆様にお伝えすることができて、とても幸せに思います。母もきっと喜んでいることでしょう。
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