アインシュタイン来日100周年記念 ドイツ大使館が外壁で日本の旅路を紹介
今を遡ること100年、大正11(1922)年11月17日、アルベルト·アインシュタインが乗った日本郵船の北野丸は神戸港に入港した。約一か月の長旅を経て、ついに日本にやってきたアインシュタインは、この東洋の小さな国に40日以上滞在し、各地を訪問する。フランスのマルセイユを出てから、1カ月以上の船旅だった。その印象、瀬戸内海の景色について、アインシュタインはこう記している。「やさしくて上品な人びとと芸術。日本人はラフカディオ·ハーン(小泉八雲)の本で知った以上に神秘的で、そのうえ思いやりがあって気取らない。」
駐日ドイツ大使館(クレーメンス·フォン·ゲッツェ駐日ドイツ大使)では、その神秘に包まれた国を歩くアインシュタインの様子を、を漫画ライブペインターの内田慎之介と共に、ドイツ大使館の外壁に漫画で描き、当時の様子を再現した。
2022年3月14日、アインシュタインの誕生日に合わせ、クレーメンス·フォン·ゲッツェ駐日ドイツ大使によって正式に開示された。その際、ドイツ生まれのアインシュタインが深いつながりをもったスイス、アメリカ、イスラエルの大使、外交官が招待され、大使館の外壁を飾るウォールアートを鑑賞し、改めてアインシュタインの功績をたたえた。
アインシュタインゆかりの国々からのコメントは以下の通り;
クレーメンス·フォン·ゲッツェ駐日ドイツ大使
アインシュタインは、理論物理学の分野のみならず、国際理解や世界平和に多大な貢献をしました。
1922年の来日はアインシュタインが日本に滞在した唯一の機会でしたが、旅についての詳細な記録は日本の社会や文化がいかに深い印象を残したかを物語っています。
レイモンド・F・グリーン在日米国大使館首席公使
ワシントンにある米国科学アカデミーの敷地の南西、リンカーン記念館とホワイトハウスの間に位置する場所にアルベルト・アインシュタインの巨大なブロンズ像があります。この像は、アインシュタインの生誕100周年を記念して1979年に建てられました。銅像はアインシュタインの最も重要な学術貢献である三つの概念を要約した数学的方程式が書かれた紙を持ち、足元には天体図が広がっています。記念碑は、暗雲に包まれたヨーロッパとの対比として、広い空へと開かれた空間に設置されています。数多くの記念碑が立ち並ぶこの町で、一際静かにたたずむこの記念碑は、謙虚さを表しており、それはアインシュタインの人柄とも重なります。銅像が腰掛けているベンチにはアインシュタインの最も有名な言葉が刻まれています。
『私は選択できる限り、市民の自由、寛容、そして法の前にすべての市民が平等である国にのみ生きるでしょう』
壁画や銅像が映し出すアインシュタインの科学、国際協力そして教育への貢献は、これからも私たちにインスピレーションを与え続けるでしょう。
バラク・シャイン駐日イスラエル大使館報道官
アインシュタインは常に、社会正義、教育、知的機能の発達など、ユダヤ人が重んじる価値観に従い生きてきました。彼は自らの名声を利用し、ホロコーストでヨーロッパから逃れてきたユダヤ人たちをアメリカに入国させるための宣誓供述書を、当局に止められるまで出し続けました。アインシュタインが掲げた価値観は、近代のイスラエルに大きな影響を与えたエルサレム・ヘブライ大学の創立にも顕れています。自らの考え方や視点をイスラエルの教育制度に反映させることで、アインシュタインは「発見」「開発」「革新」の文化的重要性に大きな影響を与えました。アインシュタインは科学や物理の先駆者であっただけでなく、その影響は社会全体にまで及んだのです。アインシュタインのビジョンと彼が残したレガシーは今日のイスラエル社会に受け継がれています。
アンドレアス・バオム駐日スイス大使
「アルベルト・アインシュタインは1895年、大学への進学のためにスイスに渡り、物理学と数学で学位を取得した後、1901年にスイス国籍を取得します。卒業後はベルンに移り住み、「アインシュタイン奇跡の年」で知られる1905年に革新的な4つの論文を発表し、相対性理論の研究にとりかかります。アインシュタインはその後チューリッヒに戻り、世界各国の若手研究者たちの育成に従事します。その一人が理論物理学者の石原純であり、石原は後にエッセーにて、「偉大なる大先生」が日本の学生から東洋について知りたがっていたこと、科学にとどまらず、広い意味で人間文化にも強い関心を寄せていたことを綴っています。世界中の様々な人や文化を「分け隔てなく」理解し、享受しようとしたアインシュタインは、今も私たちにとって模範的な存在であり続けます」。
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