マルタ大使に聞く新たな展望

新大使館開設:新任マルタ大使、マルタの魅力と日本との歴史を語る

マルタ共和国のアンドレ・スピテリ駐日大使は、マルタと日本の関係の構築と強化に長い間情熱を注いできている。このインタビューでは、2020年にスピテリ大使がマルタの初代駐日大使に就任した経緯についてお聞きした。マルタは、安全とセキュリティ、技術産業の繁栄、規制環境の実現という点にも注目が集まっているが、大使はこの独自性についても語っている。また、日本とマルタの間の二国間関係を最適化するための重点分野についてもコメントしている。

スピテリ大使は、2002年に関西外国語大学の交換留学生として初来日した。2005年にマルタ大学を卒業後、日本の文部科学省奨学金を得て、京都の立命館大学に学び、2010年には国際関係修士号を取得している。その後、マルタ外務省入省し、2017年でマルタが欧州連合理事会議長国となった際は、外務省側で議長国としての全般的な調整に従事した経験も持つ。 またマルタ-日本協会の委員会の設立に大きな役割を果たしており、マルタから日本とのビジネスリンクを作成する手段として、2017年9月のマルタ-日本商工会議所の設立も支援している。

アンドレ・スピテリ大使は、2020年9月に初代マルタ駐在大使に就任。駐日マルタ大使館が置かれていなかった2014年からすでに非駐在大使を務め、両国の関係拡大に貢献し続けている。 スピテリ大使は日本の文学知識にとても興味を持っており、言語研究、その他の日本の文化的および経済的傾向にも興味を持って研究にいとまがない。

Q:来日を決め、最初の日本の駐在大使となられました。 ご家族の背景などからは、日本への特別な親和性はおありだったのでしょうか。

まさに運命的でした。 私が生まれる4年前に亡くなった祖父ですが、祖父はマルタの港で働いていました。 祖父は日本の船が出港するのを見て、自分の妻、つまり私の祖母に、「本当に日本に行きたい」と言っていたそうです。それを聞いた祖母は、祖父に「狂ったの?」と聞き返したそうです。祖父母がそんなやりとりをしたのは、東京オリンピックと大阪博覧会が開催された当時ですので、おそらく60年代か70年代のことでした。 その二人の孫が何度も日本を訪れたことは、運命といえるのではないかと思います。

Q:初めて日本にいらしたときは、当時、日本において、より大変な仕事をすることになる為と思っていらっしゃったのでしょうか。

それはとても興味深い質問ですね。私は20年前に学生として日本に来ました。まだマルタ大学の2年生で、交換留学として2002年に日本の大学に行く機会を得ました。マルタはその2年後にEUに加盟しました。 関西外国語大学で9ヶ月間過ごしましたが、世界中の人と出会うことができました。そのことでもとても驚きました。アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、オーストラリア、アジアなど世界中から来た人々でした。そうした国々はすべて日本に大使館を持っていました。私はそうした友人の何人かと話し、もし何かが私に起こったら、どこに行けばいいのかと尋ねたことがありました。 何をしたらいいのか?誰と話したらいいの?と。(日本にまだ駐日マルタ大使館はありませんでしたので)当時は北京のマルタ大使が日本も管轄しておりましたので、最寄りのマルタ大使館は北京であり、ちょっと不便だと感じました。

マルタ国旗・日本国旗
マルタ国旗・日本国旗

2013年、新政権は日本と韓国で初めて非居住者大使を任命することを決定しました。当時私はマルタにいましたが、この重要な決定の妥当性を理解しました。私を信じてくださった方々のためにも、その方々への敬意を表して、マルタと日本の関係を強化するためにも最善を尽くしたいと思いました。

Q:2020年2月、新型コロナウィルスの感染拡大が日本を襲ったばかりの、非常に困難な状況において、ミッションを開始なさったとお聞きしておりますが、最初の数か月はどのように管理なさっていらしたのでしょうか?

2019年10月、マルタ共和国大統領が天皇陛下の即位礼正殿の儀のために来日しましたので、私もミッションを得て日本に滞在いたしました。その時には、大使館の場所を探すために滞在期間を少し延長いたしました。その間に東京の中心部に行きました。しかし、その後に新型コロナウィルスが日本を襲い、日本は国境を閉鎖し、旅行制限によって渡航禁止となりました。

最初に一時的な大使館のスペースを開くことに同意したので、大使館開設準備として使用できる小さなスペースを見つけました。 私は2020年9月にたった一人で来日しました。新型コロナウィルス感染拡大のため、検疫に2週間を費やし、その後2020年9月28日に大使館を開設しました。

大使館を開くことは、企業をゼロから立ち上げることのようでした。まさにゼロから設立することを段階的に構築していかなければなりませんでした。もちろん、外国に大使館を開く経験は私にはありませんでしたので、とても大変でした。 最初の1年間はほとんど一人でおりましたので、最初はホテル暮らしをし、後に大使の公邸も見つけなければなりませんでした。

一方、大使館の事務所は空いていて、家具、事務用品、公用車を買わなければなりませんでした。 銀行は大使館を外国の口座として扱っているため、最大の課題となったことは大使館の銀行口座を円とユーロで開設することでした。 こうしてすべてが整い、現地スタッフの採用を開始することができました。さらに、マルタからの外交官が昨年11月に着任しています。

今は、次のステップとしては、適切な大使館として機能するためのより大きなスペースを見つけることです。

Q:日マルタの関係について教えてください。

マルタと日本の外交関係は、マルタが英国から独立した1年後にあたる1965年に正式に始まりました。しかし両国の関係はより以前に遡ることができます。

また、マルタと日本における国の関係には、歴史的な関連性があります。幕末には、ヨーロッパへの使節団が派遣されましたが、これは日本からヨーロッパへの最初の大使館(外交使節団)と呼ばれています。その使節団は、ヨーロッパのさまざまな港や場所に立ち寄り、1862年のロンドン万国博覧会を見に行く途中、当時まだ大英帝国の一部であったマルタにも立ち寄りました。この外交使節団の4人の重要人物のうちの1人は福沢諭吉でした。 福沢諭吉は英語が堪能であり、通訳を務めていたと思われます。その際、感謝の気持ちとして、日本からは伝統的な武士の鎧一式を2セット贈呈しています。当時の日本の将軍は、外交の贈り物として鎧を贈ることが好きだったそうです。

日本使節団より送られた伝統的な武士の鎧
日本使節団より送られた伝統的な武士の鎧

両国の関係におけるもう一つの重要な出来事といえるものは、マルタのカルカラ海軍墓地にある日本の戦争記念碑に象徴されると言っていいでしょう。第一次世界大戦では、マルタはイギリスの植民地であったため、地中海の連合軍の船を敵の海軍から守らなければならないというミッションがありました。そのため、日本帝国の天皇陛下の第2分離飛行隊がマルタに駐屯していました。

1917年6月、日本の駆逐艦「榊」は、クレタ島沖のオーストリアのUボートに魚雷を撃ち込まれました。爆撃によって乗組員は亡くなりましたので、マルタに埋葬されました。

日本は第一次世界大戦において、非常に重要な役割を果たしました。日本海軍は同盟国の船や護送船団を保護しており、マルタの記念碑はその証拠です。その歴史的な瞬間については書物にも書かれています。

1921年、2年後に戴冠式を控えた昭和天皇は、皇太子時代に欧州を旅し、マルタを訪れました。昭和天皇はマルタの最初の議会の開会を見ることもあり、非常に重要な時期にマルタを訪れたと言えます。まだ皇太子だった昭和天皇はまた、サン·アントン·ガーデンズに友情の印として桜の木を植えており、この木は今日も大切にされています。

Q:マルタと日本は、次期安保理のメンバー候補者とおっしゃいました。両国にとってのその意義を教えていただけますか。

マルタは、国連安全保障理事会の候補として、安全保障、持続可能性、連帯をその任務の中心に置くことを目指しています。 選挙は今年6月に行われます。 日本は候補国であり、マルタは別のグループの候補でもあるため、2023-2024の任期において、国連安全保障理事会で協力する良い機会となるかもしれません。

ウクライナやロシアの問題などの国際的な問題についても、マルタは日本ともに国連総会に投票いたします。両国は志を同じくするパートナー同士でありますし、両国は多国間アプローチを確信しているように、多国間フォーラムで互いに協力することを望んでいます。

Q:日本とマルタの貿易関係はどのようなものでしょうか?

貿易は非常に高いレベルにあります。 日本への主な輸出品は魚類と甲殻類です。 たとえば、マルタの主要な輸出品の1つであるクロマグロは有名です。マルタにとって、これは大きなサクセスストーリーであり、日本との貿易関係の成功の良い例となることでしょう。 職人によって作られるチーズ、オリーブオイル、ワイン、蜂蜜など、他のマルタ製品でもこうした大成功を再現できると信じています。 数量に限りはありますが、本物であるということは日本人にも喜ばれると確信しています。日本からは主に車両・部品・電気機械を輸入しております。 日本車はマルタで最も人気があり、特にトヨタ、ホンダ、マツダに人気があるようです。

駐日マルタ大使館は、蜂蜜、オリーブオイル、ワイン、チーズを味わうため、日本への「窓」のように機能しています。マルタという国名は古代ギリシャ語で「蜂蜜」を意味します。マルタは蜂蜜の国として知られていました。 マルタには今も2000年前の蜂蜜養蜂場があります。 養蜂場はローマ人によって建てられ、今も存在しています。このように、マルタの養蜂の伝統は数千年前にまで遡ることができます。

マルタの産物とは別に、さらに多くの日本人がマルタを旅行していることを非常に嬉しく思っています。 新型コロナウィルス感染拡大以前の日本人観光客は、2019年に26,000人近くに達しました。2021年には1,714人でしたので、2022年にはさらに多くの旅行者が訪れることに期待しています。英語を学ぶ学生も2021年に1,521人がマルタを訪れ、平均10週間滞在しています。これはEU圏以外の学生としては、日本は最高のマーケットだということでしょう。

日本のマルタ愛好家制作のマルタ風アート作品
日本のマルタ愛好家制作のマルタ風アート作品

Q:日本との今後の関係を促進するために、特に焦点を当てたいプロジェクトはおありですか?

ここでお話ししたい重要なトピックの1つは、島外交と呼ばれているものです。マルタはとても小さな島ですが、同じく日本にもたくさんの島があります。人がいない島もあれば、何千人もが暮らし、連絡もできると言う島もあります。そうした小さな島々と同じように、マルタも海洋汚染、乱獲、マイクロプラスチックに関連した同じ課題を抱えています。マルタでも同じようにそれらの問題·課題に取り組んでおりますので、お互いの経験から学ぶことができるでしょう。これらの島々に、より多くの可視性と国際的なつながりを与えることには、多くの可能性をもたらすと信じています。

Q:ヨーロッパでは、マルタはその技術·ノウハウとソフトウェアおよびテクノロジー企業とその事業への友好的とも言える環境にあることで知られていますが、日本はマルタのソフトウェアおよびテクノロジー産業に投資し、事務所を置くことについて、関心を持っているとお思いですか。

マルタでもフィンテックやさまざまなIT業界に非常に強い関心があります。特にマルタの若者の間で、こうした業界での好機を模索することに熱心であるのはとても良いことです。今日、若者は主にテクノロジー、ウェブデザイン、グラフィックデザイン、eコマース、デジタルマーケティングなどに興味を持っており、マルタはさらなる発展のためのフレームワークを提供しています。

とはいえ、人々はマルタの技術産業のためだけに惹かれるわけではありません。エンターテインメント、ビーチ、自然、歴史もあり、こうしたものが揃って1つの完全なパッケージとなります。

マルタは、規制の枠組みとシステムが可能となるだけでなく、生活の質も提供しています。安全な環境であり、特に子供にとって非常に安全です。マルタでは両親に見守られながら外で遊んでいる子どもたちに気づくことでしょう。マルタでの生活は、朝は仕事に出かけ、家に帰ってリフレッシュしてから、ビーチに出かけたり、ゴルフを楽しんだりもできます。その後、友達と会って夕食をとるという一日です。通勤時間の短縮にも努めており、生活をより楽しめるように考えています。

Q:観光はマルタ経済にとって重要な柱だとおっしゃっていますが、今後のマルタと日本という二国間でより発展が望める機会について教えてください。

観光は過去20〜25年間にわたって活況と言っていいでしょう。日本ではマルタ観光のプロモーションが行われています。マルタへの直行便がないために、以前ではその存在すら考えられなかった市場でしたが、トルコ航空、エミレーツ航空、カタール航空との乗り継ぎが増え、変ってきています。以前は航空運賃も高価だったため、その価格も観光客を呼び込めない要因でもありました。ですが、今ではよりリーズナブルな価格でよいご旅行を楽しんでいただけます。現在は直行便の可能性に取り組んでおりますが、新型コロナウィルス感染拡大のためにまだまだ時間を要します。また、2018年に首相が来日した際には、コードシェア契約を締結しました。

現在、マルタについてのさまざまなガイドブックがありますが、これは当然のことと考えられています。マルタに関するガイドブックが無かったころは、一冊のガイドブックに南イタリアとマルタにまとめられていました。 現在、マルタだけに関するさまざまなガイドブックが出ています。 そうした「マルタガイド」の5つまたは6つはオンラインの書店で簡単に見つけることができますし、定期的に更新されるため、直近の情報が掲載されています。これは日本人旅行者にとって非常に良い情報資源となるでしょう。また、マルタの観光局があり、この島を観光と英語の学習先として宣伝しています。

日本人は異文化を体験できる場所に行きたいと思っているのではないでしょうか。日本人はヨーロッパ、ロシア、アジアなど、世界中の人々と会いたいのでしょう。日本に帰国しても、お互いに連絡を取り合い、絆や友情を深められるよう、日本で英語を学ぶ学生の同窓会の設立にも尽力いたしました。

We thank Ambassador Spiteri for this interview.

For more information visit: Malta in Japan

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