画鬼、暁斎が選んだコレクター:イスラエル・ゴールドマンのコレクション展
現在、最も人気の高い絵師といえば、伊藤若冲と河鍋暁斎ではないか。

暁斎は幕末から明治にかけて大活躍した天才として知られる。数え年7歳で歌川国芳門下となり、絵の技術を学び始める。この最初の修業時代に、暁斎伝説として名高い生首事件が起きる。まだ幼かった周三郎(後の暁斎)は、川で拾った人間の生首を隠し持って写生していたという。自分の目で見たものを写生したかった暁斎の世界は既にこのころに片鱗をのぞかせている。
こうして浮世絵の技術を学んでいた暁斎だが、現代で言えば小学校に入学したばかりの年齢の周三郎(後の暁斎)には、国芳の素行がよい影響をあたえないと父は判断し、周三郎を国芳門下から離し、改めて狩野派の絵師に入門させる。どうやら国芳とその門下は、当時の遊郭吉原に繰り出すことがあり、まだ幼い周三郎も連れて行ったのではないか。天才とはあらゆる場面での伝説がつきまとうが、暁斎もまた例外ではない。
狩野派で修業を積んだ暁斎は、非常に早い時期にその技術を完成していたと言われている。おそらくその時期は彼がまだ17歳ぐらいであったとも言われる。
暁斎は非常に多作でもあった。席画にもその才能をあらわしている。席画とは宴会で描くことだが、生来酒好きであったことから、宴席を好み、そこでも即興で絵を描いた。へべれけに酔っぱらっている為、サインはうねり、めちゃくちゃでやっと判読できるようだが、その時に描いた絵でもあまりにも素晴らしい!天才とはこういうものだと言わんばかりだ。

しかし暁斎につきまとうのは、まとまったコレクションが無いということだ。それは多作でもあった暁斎の最も大きな弱点ではないか。
実は河鍋暁斎は当時、彼のパトロンでもあった鹿島清兵衛に後世に自分の作品を残してほしいと頼んだと言われている。鹿島清兵衛は暁斎の代表作と言われる「地獄極楽巡図」を始め、多くの名作を保有していた。しかし、清兵衛の死後、子孫の金銭的状況などによりこのコレクションは売却され、世界に散逸してしまった。さらには行方知れずとなってしまった作品も多いと聞く。

そのような暁斎の作品を40年以上に亘って、熱心に買い集め、大コレクションを作り上げたコレクターがいる。イスラエル・ゴールドマン氏だ。
ゴールドマン氏が初めて暁斎の作品に出合ったのは、1989年ころだという。その時に、画商である彼は象と戯れる子熊の作品を入手した。このかわいらしい絵にはすぐに買い手がつき、ゴールドマン氏のもとから去ったという。その後ゴールドマン氏は耐え難いほどの後悔を持つ。つまり、彼はあの絵を手放してはならなかったということに気づいたのだろう。彼はその後、何年もかけてその絵を買い戻した。その絵にこの展覧会で出会える。暁斎とゴールドマン氏を赤い糸で結んだのが、この展覧会の最初に鑑賞者が出会う第一章ゴールドマン・コレクションのスター、《象と子熊》だ。愛らしい子熊が象と戯れる様子は見る人に癒しさえも与える。おそらく通常はゴールドマン氏の極めてプライベートな空間に飾られていることだろう。

「けもの」と題された第二章では、暁斎によってまるで人間のように豊かな表情を得た獣たちが乱舞するような世界が展開される。暁斎独特の足の動きの軽妙さに筆者の心は踊った。


第三章では暁斎の描く「ひと」が登場する。歴史上の人物も多く描かれているが、ここでの暁斎の真骨頂とは、当時の社会を風刺した作品ではないか。時は幕末、戊辰戦争のころ、暁斎は《放屁合戦》を描いている。これは兵と屁の語呂をあわせ、兵力で闘うことを「屁力」で闘うに置き換えた、強烈な反戦にも繋がる風刺画だ。また、お雇い外国人のジョサイア・コンドルも登場する。その登場の仕方はとても面白い。西洋人ゆえに日本の正座に難儀したコンドルは寝転がった姿で描かれている。


「おに」が登場する第四章は、ただ単に怖い妖怪の類、鬼を描くのではなく、人に置き換え、多彩な表情をみせている。その中には困った顔をし、考え込む様子、はたまた遊びに興じる様子もある。どんな人にも笑も苦労もあると暁斎は言いたいのかもしれない。


続く第五章では「おに」に続いて「神と仏」が登場する。これも暁斎の風刺のきいた意向、超絶技巧の腕前をもってすれば、いかにも軽々と描かれ、多彩な表情を見せてくれる。

第六章では、当時の人々の手に多く渡ったであろう「版画」の世界が展開される。時は幕末明治の黎明期、いろんな文化が外国からやってきたことも暁斎は見逃さなかった。またここには暁斎がこのんで交流した建築家のジョサイア・コンドルなど、お雇い外国人をおもわせる姿も見受けられる。暁斎には時として紅毛碧眼の西洋人は天狗に見えることもあったのだろう。

この展覧会はとても見やすかった。それはテーマを決めてキュレーションがなされているのではなく、暁斎の描いた作品をテーマ別に分けて、章立てしているからだ。これは暁斎ありきのキュレーションといえる。まとまって暁斎の世界観が堪能できた楽しい展覧会でもあった。後半には、ゴールドマン氏があつめた作品の中でも日本初公開の作品も多く展示されており、これは新しい発見があって感動した。
イスラエル・“イジ―”・ゴールドマン氏は「私が暁斎を選んだのではなく、暁斎が私を選んだ」とコメントしている。暁斎は1889年に胃がんのために57歳で死去している。ゴールドマン氏が暁斎のコレクションをはじめたのはそれから100年を経た1989年頃だという。没後100年を経て、暁斎はやっと臨んだコレクターを見つけたのだ。
冒頭、ゴールドマン氏が愛犬モリ―を抱いて微笑む写真が目に留まった。筆者はその優しいまなざしに、暁斎の面影を見たような気分になった。というのは、大酒のみで社会を風刺する皮肉屋、超絶技巧の画力をもった画鬼という評価、イメージが暁斎にはつきまとう。しかし実際の暁斎は子煩悩でやさしい一面があった。
暁斎は生涯で3回の結婚を経験している。最初の結婚相手は琳派の大物、鈴木其一の次女、清だが、結婚生活は2年にも満たずに妻は死去する。その後、2番目の妻登勢と結婚するが、後に絵師となる暁雲が生まれて間もなく登勢も死去した。母をなくした息子のために暁斎は自らもらい乳をして歩いたという。その後、37歳の時に近と3度目の結婚し、後に暁斎の跡継ぎとなる女流画家の暁翠、赤羽家に養子にでた喜六などが誕生している。暁斎は後の暁翠が5歳の時には「柿に鳩の図」という絵手本を与えて、日本画の手ほどきを始めた。まだ幼い子供達には雛人形を描いてやり、双六なども作ったという。優しい家庭人としての側面もちゃんと暁斎は持っていた。きっと優しいまなざしで子どもたちの成長を見守っていたことだろう。

ゴールドマン氏と暁斎、100年の時を経て出会った二人には目に見えない絆があるに違いない。ゴールドマン氏は世界を巡ってこれからも暁斎の作品をそのコレクションに加えていくことだろう。それは暁斎が最も望んでいたことだ。若い日に暁斎にみせられたゴールドマン氏の夢は、天才絵師の心からの望みでもあったと言える。暁斎コレクションとしては世界一と言われるゴールドマン・コレクションはこれからも発展していくことだろう。次の展覧会が楽しみになる必見の展覧会であった。
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