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Kuwait Ambassador to Japan H.E Hasan Mohammad Zaman

帰国を前にして

ハサン・ムハンマド・ザマーン駐日クウェート国大使インタビュー 日本とクウェート両国は、強固な戦略的目標を掲げるとともに、非常に良い友好関係も築いていると言える。中東の国、クウェートはイラクとサウジアラビアに接する地域にあり、世界有数の石油埋蔵量を誇っている。もちろん石油は日本への重要な輸出品だ。この度、離日を控えたハサン・ムハンマド・ザマーン駐日クウェート国大使にお目にかかり、現在の強固な日本とクウェートとの関係の起源、クウェートが注目する開発関連の5つの柱、クリーンエネルギーへの移行の必要性、更には東京にあるクウェート大使館の建築的な価値に関してお聞きすることができた。 ―駐日クウェート大使在任中の日本とクウェート両国の関係ついてお伺いできますか。 クウェートと日本は非常に強い関係で結ばれています。その関係の起源は、数隻の日本船が貿易の機会を求めてクウェートを訪れた19世紀に遡ることができます。この時に、日本政府は初めてクウェートの存在を認知いたしました。1958年には、クウェートと日本との正式な外交が開始され、それ以来、様々な日本の石油会社がクウェートでビジネスを展開しています。 1961年には、クウェートと日本との国交が正式に樹立さました。昨年2021年12月8日は、両国の国交樹立60周年にあたり、この記念すべき日を祝うことができました。イラクによるクウェート侵攻が起きた1990年まで、日本とは良好な関係を維持してまいりました。当時、日本は130億ドル相当の経済支援をクウェートに対して行い、それはクウェート解放に大きな役割を果たしています。困難な時期に、日本政府がクウェートを支援してくださったことは、今も鮮明に記憶に残っており、感謝しています。 2011年に東日本大震災が起きた際、クウェートは日本に500万バレル(5億ドル相当)の石油を寄贈しました。クウェートにとって、この支援は日本と日本の友人に対してすべき最低限のことでした。地震と津波による大きな被害を知り、クウェートもまた深い悲しみに暮れました。クウェートの前首長、シェイク サバーハ アル アブドゥラ アル サレム アル サバーハ殿下は、東洋にいる友人宛にすぐに寄付を行うように、と強くコメントを出しております。「1990年には我々を支援していただいた。今度は我々が日本の友人を支援しなければならない。」と殿下自ら指示を出されました。 クウェートは日本政府に、500万バレルの石油を寄付いたしましたが、その使い道に関しては、何も申し上げませんでした。にもかかわらず、日本人はクウェートに、使い道、進捗状況を詳細に報告して下さっていました。半年に一回、その石油の使用用途については、詳細なレポートを送られて参りました。 私自身もこの地震で最も被害が深刻だった地域である福島県と岩手県を訪問いたしました。被災地を訪問した際、現地の方々との交流を通じ、クウェートの支援により、困っていた人々を助けることができた事実を実感することができました。私にとって、これは非常に特別な経験となりました。 先月、宮城県(2011年の地震の被災地の一つ)の市長をお迎えし、医大卒業生との写真を見せていただきました。クウェートによる90億円相当の石油給付金が、2015年に東北医科薬科大学に贈られ、それは「クウェート国友好医学生修学基金」を設立するために充てられたことがあり、市長はとても感謝されておりました。この財団では、毎年30名の東北出身の学生の方々に奨学金を給付し、本学で学ぶことができるよう支援しています。2022年3月には、第一期生が卒業いたしました。 ―日本との貿易関係についてお聞かせいただけますか。 クウェートと日本は、どちらも様々な諸外国との交易の歴史を持っています。クウェートは現在、日本へ石油を輸出する一方、日本からは機器を輸入しています。クウェートは日本の石油会社とも強いパートナーシップを築いています。クウェート政府と日本の業界大手(出光と三井化学)は共同で、ベトナムに新しい石油精製所「ニソン製油所」も設立いたしました。この例を含め、クウェートと日本は両国の有益な協力関係に基づき、戦略的な長期目標に向かって協力し合っています。 クウェート政府は、中東地域の主要な産油国として、またクリーンエネルギーの世界的な需要を背景として、海外投資や専門知識を活用することによって経済の多角化を進めるべく、長期戦略計画の柱となる5つの主要分野を定めています。この機会に、この件もご説明いたします。 脱炭素化は世界中、全ての国にとって重要な課題であり、クウェートもこの課題に焦点を当てて取り組んでいます。日本は2060年までにカーボンニュートラルを目指しており、クウェートのビジョンおよび日本との関係において、主要とも言える重要な部分となっています。さらに、新型コロナウィルス感染拡大の深刻な影響により、非常時には他国と強い外交関係を築き、世界規模の深刻な問題に対処すべく、双方が協力する必要性が強調されています。 私たちは、クウェートにおける5つの最重要分野として、食糧安全保障、教育、健康、サーバーセキュリティ、人工知能を挙げています。これら分野はすべて世界的なパンデミックの影響を受けています。現在クウェート外務省を通じ、この5つの分野に関して日本の外務省と協議を重ねており、議論の進展に注目しています。 サイバーセキュリティ、人工知能、医療研究の3つの分野においては、既に大きな進展がありました。人工知能に関しては、日本の民間企業と連携し、医療研究については、東京都と提携を結んでいます。サイバーセキュリティについては、持続的な進展が得られるように、首相官邸とも協力しています。 現在、東ヨーロッパの政治・軍事情勢に伴い、食糧確保が緊急の課題となっています。クウェートでは、食糧安全保障情勢を受けて、特別委員会の設置を計画しており、この課題に対して優先的に取り組んでいます。 また、食糧安全保障に関して、クウェートは日本の経験から学ぶことも目指しています。これまで日本いくつもの歴史的な苦難に直面してきました。その苦難とは、地震や津波などの自然災害が挙げられます。また、第二次世界大戦は、日本国内の食糧安全保障に深刻な影響をも与えました。このような経験からも、日本は食糧確保に関する重要な教訓と専門知識を持っており、私たちクウェート人も日本人の知恵を共有できるものと考えています。 クウェートが注目しているもう一つの分野は教育です。世界の多くの地域において、教育は新型コロナウィルス感染拡大の影響を深刻に受けています。今後は、デジタル学習をさらに進歩させる上でも、技術的な障壁を克服する必要があります。教育分野の進歩をより加速する上でも、その持続可能で効率的な解決策について、日本の方々と共に検討する必要がある分野だと言えます。 ―東京の駐日クウェート大使館は、今後どのような活動を計画されていますか。 クウェート投資庁は日本へ投資を行っていますが、同様に日本からクウェートへの投資も増やす必要があります。クウェートへの海外投資の魅力をよりアピールすることで、今後は日本からの投資額を増やしてまいる所存です。 また、先ほど述べたように、前述の5つの分野に集中することが大使館の使命だと考えています。3つの分野(サイバーセキュリティ、人工知能、医療研究)については特筆すべき進展がありましたが、残りの2つの分野も同じように前進させなければなりません。そのためにはより的を絞った適切な努力が必要です。特に、教育や食糧安全保障に関する日本とクウェートとの協力関係については、日本国内において良い環境が整っていますので、間違いなく、日本からは多くの経験やノウハウを得ることができるでしょう。しかし、5つの分野すべてに継続的に取り組み、日本にとってクウェートへの投資や知識移転をより魅力的になるような環境を提供する必要もあります。 ―東京オリンピックに関してどのような取り組みをされましたか。…

香川県立ミュージアム「特別展「風景が物語る瀬戸内の力―自然・歴史・人の共鳴―」 

現在開催されている瀬戸内国際芸術祭2022参加展覧会「特別展「風景が物語る瀬戸内の力―自然・歴史・人の共鳴―」は大変見ごたえのある展覧会だ。 瀬戸内国際芸術祭が開催される直島、高松等の地域は瀬戸内海という日本最大の内海(ないかい)に恵まれ、内海に浮かぶ島々は700以上にも上る。自然に恵まれた瀬戸内には、人々の往来、屋島に代表される源平合戦など、歴史的な事実も多い。 この展覧会では、瀬戸内海を<ユートピア><自然><生活><名所><近現代そして未来>という5つのテーマに分け、中世から現代までの各地の瀬戸内海の姿を表わした作品を展示している。 その展示の中でも、特に注目を集めたのは「志度寺縁起」のシリーズ「御衣木之縁起」「讃州志度道場縁起一」「讃州志度道場縁起二」という3つの作品だ。 「讃州志度道場縁起」には、藤原不比等の妹が唐の皇帝に嫁ぎ、父、藤原鎌足の供養のために面向不背の宝珠を日本に送ろうとするが、その宝珠を積んだ船は志度の浦で嵐にあい遭難、宝珠は竜神に奪われてしまうという物語が描かれている。 更にこの物語は続き、藤原不比等は海女を妻とし、宝珠奪還を願う。妻となった海女は自分の息子を藤原氏の嫡男とするよう頼んで一人、龍宮へ向かう。妻である海女は自らの命と引き換えに宝珠を奪還する。不比等は命を落とした妻を偲んで墓を作り、志度寺を建立したという。 この作品は重要文化財にも指定されており、以前から香川県立ミュージアムにはレプリカが展示してあった。しかし、今回、修復を経て、元来の美しい姿を取り戻している。暴風雨にみまわれ、珍しく荒れる瀬戸内海の様子、唐の皇帝に嫁いだ藤原不比等の妹の様子などが繊細なタッチと荒々しい画面をうまく組み合わせて描かれている。妻を失った不比等は堂宇を増築し死度道場と名付けた。後に、息子の藤原房前が行基とともに堂宇を建立し、「死度道場」を「志度寺」に改めたと伝えられている。 その他にも、すでに絶滅してしまった日本あしかが描かれた網代日記も素晴らしい。訪れていないはずだが、どういうわけか歌川広重はこの地域も描いている。しかし、本当は訪れたことがないということがばれないようになのか、その構図はとても工夫がこらされ、とても見ごたえのある作品となっている。 その他、すぐれた作品が並ぶこの展覧会は、この地が四国遍路路を有すること、空海にゆかりのある地域であること、また、高松城に代表される松平家のおひざ元であるということを改めて思い出させる。 こうした瀬戸内海にまつわる伝説を描いた作品をしっかりとした構成をもとに展示している展覧会は他に例がないのではないか。11月6日までと残りの会期は少なくなっているが、是非とも見て頂きたい展覧会だ。 また、見逃した場合も、香川県立ミュージアムに問い合わせ、この展覧会の図録を購入して、瀬戸内海に残る伝説、それを描いた作品について読んでみるのもとても面白い。 香川県立ミュージアムは、この展覧会に続き「高松藩主松平頼重生誕400年記念展Ⅱ 頼重と寺社」を開催する。さらに来年には空海の生誕1250年を記念した展示があるという。これも見逃せない展覧会だ。 Read more:

The Power of Setouchi

The Kagawa Prefectural Museum’s “Special Exhibition” – The Power of Setouchi Revealed Through Its Scenery: The Resonance of Nature, History and People…
Nobuyuki Matsuhisa

グローバルで日本的なビジネス、チームを率いるカリスマシェフNOBU 松久信幸シェフ インタビュー

世界一のシェフと呼ばれる日本人、松久信幸。世界を飛び回るこのシェフにはなかなか会えないという。幸い、ある日の午後、ホテルオークラにほど近い、日本のNOBUでお目にかかることができた。 すっきりと刈り上げた頭髪、やや日焼けした顔に真っ白なコックコートをまとってその人は現れた。70歳を超えているとは思えないエネルギッシュな歩き方と屈託のない笑顔が印象的だ。 世界の人々を癒し、虜にしてきたそのビジネスの手腕は誰もが注目するところだ。NOBUの総帥はどんな哲学をもってそのビジネスを育ててきたのだろうか。 お話しをお聴きするうちに、いつの間にかその哲学の奥深さ、トップとしての懐の深さに深い感銘を受けた。世界の人々を満足させて続ける彼のビジネスには、ファミリー的な考えがあり、古き良き日本の美学があった。 世界一のシェフと呼ばれる男はまた、世界一魅力的なビジネスマンであり日本人だった。すべてのビジネスマン、起業家に読んでもらいたい、忘れられないインタビューとなった。 質問:2020年からの新型コロナウィルス感染拡大にあっても、スピードを緩めることなくビジネスを展開していらっしゃいましたが、それはどうしてでしょうか。 松久:実際にパンデミックになった時には、ビジネスがストップしたところはあります。現実に、ノブのハワイは締めざるを得なくなりました。その他にもいくつか一時的締めたレストランなどはあります。しかし、新型コロナウィルス感染拡大になる前から、我々のプロジェクトは立ち上がっていました。それは、「はい、やります」と言って出来るものではありません。何年も前からそういった話がありましたし、それで新型コロナ感染拡大中でもそのプロジェクトが進んでいたということです。 ですので、実際にパンデミックの最中でも、ワルシャワ、ロンドン、シカゴ、シドニーなどのいくつかのホテルとレストランが、新型コロナ感染拡大という状況にもかかわらずオープンしています。 確かに苦しいという時期もありましたけれども、ある意味、そういう中で新しいホテル、レストランが開店できたということは、僕としては非常にラッキーだったと思っています。これは決して当たり前ではありません。色んな被害が出ていますし、そうした被害にあわれた方もいらっしゃいます。倒産した会社も現実には沢山あります。そんな状況にあっても、現実にやりつづけてこられたというのは、やはりチーム力があったからではないでしょうか。「チーム力」というのが、僕にとっては大きな力になっていると思います。 質問:「チーム力」とは、創業当時から基本としていらしたのでしょうか。 松久:そうですね。当社のコンセプトでしょうか。当社は、本当に最初は小さなところから始めました。いうなれば、パパママビジネスみたいな、ファミリーのビジネスでした。 僕の原点である「Matsuhisa」は1987年に開店しました。最初のNOBUは1994年に開店しています。その当時から、お客さんに喜んでいただくということと、チームによって一つのビジネスを広げていくことを目指していました。 チームというのは、最初はチームではないものです。それが新しいジェネレーション、次の世代が出てくるときに、チームになって行くのでしょう。たとえば、ファミリーであれば、親は息子·娘を教育し、さらに息子·娘は妹弟を教育する。そうすれば、新しいビジネスですから、新しく参加してきた人たちが、育って行きます。 最初はNOBUでウェイターの仕事をしていた人が、今はNOBUのCOOになっている。チームの大切さとは、NOBUの中で育った人間が、今は幹部候補生になっているということにあります。それが一番の強みだろうと思っています。 質問:それは日本的な組織の作り方の一番の強みといえるのではないでしょうか。 松久:そうですね。僕はやっぱり日本人なので、そういうところを大事にしていますね。それとやはりチームを大事にしていって、チームのコミュニケーションが大事だと思います。 質問:チームというのは全てご自分で統括していらっしゃるのでしょうか。 松久:いや、今はもうそんなことは無理です。ですから、たとえばここにいる小林君は、もう21年間NOBUに勤務しており、現在はNOBU東京のGMを務めています。また、アジアにある店舗なども統括しています。シンガポール、フィリピン、マレーシアにも管理する範囲は及んでいます。来月は、オーストラリアに三軒の店舗があるのですが、そこに彼を連れて行って、そこからまたビジネスが広がっていくということになります。ですので、来月は、彼はシドニー、メルボルン、パース、クアラルンプール、シンガポールをずっと回る予定です。もちろん、僕も一緒に回ります。 昔はいつもそうしてやっていたのです。ですが、今はチャンスを与えられた人が次の扉を開けて、次のステップに行くというやり方になってきています。小林君もNOBUコーポレーションのCOO田原君もウェイターからキャリアを始め、初めて会社のトップに登った人達です。シェフでもアジアやヨーロッパのコーポレートシェフ、アメリカのコーポレートシェフも、昔からNOBUで育った人であり、その人たちが責任をもってビジネスを展開し、なおかつ次の世代を育てています。 質問:そうした積み重ねがあってこそ、新型コロナ感染拡大にも関わらず、ビジネスを維持できたのではないでしょうか。 松久:そうですね。乗り切れたのはチームの努力だと思います。しかし、チームというものは確かに大事ですけれども、必ずいいチームがトップになるかと言えば、それは必ずしも「そうだ」とは言い切れないですね。それはなぜかというと、確かに会社の組織としてのチームは大事です。いいチームを持つということは、会社にとっても宝だとは思うけれども、一人ひとりは人間です。今まで僕は何度も見てきていますが、チームの中にあって、自分が統括する立場になったとします。それは今まではその人の努力です。ですが、そこで勘違いをして脱落していった人間もいるのです。 ですから、僕はいつも若い人たちに、「もらったチャンスを掴むのはあなたですよ」と言います。我々は、「チャンスを君たちに与える」というか、ドアを開ける鍵までを渡すことはできます。ですが、いいチームはできましたが、チームリーダーの中には、それを勘違いしてしまって、せっかく掴んだチャンスを逃してしまうこともあります。もったいないです…。…

外国人が見た日本とは?

25周年記念「にっぽんー大使たちの視線写真展」、六本木ヒルズで開催” 日本を外国の人々はどう見ているのだろうか。それはとても気になるところだ。改めて海外からの視線で日本の良さをしることもある。今年もちゅうにちがいこうかんが捉えた現在の日本の姿を写真で紹介する「にっぽんー大使たちの視線写真展」が開催された。 「にっぽん―大使たちの視線写真展」は名誉総裁に高円宮久子妃殿下をお迎えし、1997年に開始された。25種年を迎える2022年には合計34カ国の駐日外交官およびその家族が参加した。また名誉総裁の高円宮妃殿下も特別出品している。 この展覧会を見て、特筆すべきことは、在日外国人が日本の美しさを見逃さないことだ。日本という国にある小さな空間、瞬間を如実に捉えている。走りゆく地下鉄、現代美術、相撲の合間に観る呼び出しの姿など、日本人が見過ごしてしまうような瞬間がここには溢れている。 また、日本各地で撮影された写真をみて、鑑賞者である私たちは、外交官という仕事の多忙さも改めて知ることになる。コロナ禍にあっても休むことなく日本各地を巡り、日本を知り、自国を紹介し、友好に勤めている人々の姿を作品の背後に観る。 10月7日から11日までと短い期間での展示であったが、ヒルズカフェに揃った作品がもたらす意味は大きい。各地への巡回、来年の開催が楽しみになる展覧会だった。
Lithuania and Japan |

駐日リトアニア共和国特命全権大使オーレリウス·ジーカス閣下に聞く「これからのリトアニアと日本」

おかえりなさい。新大使は日本で学んだ国際政治学者。 今年、駐日リトアニア大使館にはオーレリウス・ジーカス新大使が着任した。6月24日には、今上陛下に謁見し、信任状を捧呈している。物静かで、物腰柔らかなジーカス新大使は、元々は大学で教鞭をとっていたという。リトアニア屈指の日本語の能力を買われ、大統領をはじめとするリトアニア政府幹部の通訳を務めた経験も持つ。 このインタビューは完璧な日本語でお答えいただいた。ソフトな声で話す丁寧な日本語に、新大使のお人柄があふれ出る。リトアニアという国を知る上で、とてもいいお話しを聞くことができた。 ジーカス大使(以下、大使):今日は大使館までおいで下さいましてありがとうございました。 質問:日本語が大変にお上手ですが、どこでお勉強なさったのでしょうか。 大使:大使として日本に来たのはわずか3か月前ですが、初めて日本に来たのは1998年でした。なぜ日本語を学んだかと言うと、日本語は世界で最も複雑な言語という印象が私にはあり、挑戦してみたかったからです。ですが、当時のリトアニアには日本語を学ぶための資料は何もありませんでした。偶然に辞書を手に入れたことがあり、それで勉強し始めました。それから98年に初来日し、初めは金沢大学、続いて早稲田大学に留学し、合計3年間を過ごしました。 質問:リトアニアではどのようなお仕事をなさっていらしたのでしょうか。 大使:日本への留学を終えてから、17年間は大学の准教授として教鞭をとっておりました。リトアニアでは、日本語ができる人というのは非常に限られておりましたので、大統領、首相の通訳を務めることもあり、知らず知らずのうちに、外交の分野に入って行きました。 大使への就任については、正直に申し上げれば、外交官になる夢も持っておりませんでしたし、目指してもおりませんでした。去年の秋に外務省から突然電話があり、副大臣から日本大使になってほしいというお話しをいただきました。今までの貢献を認められたということでしたが、とてもびっくりしました。お受けするかどうかも長く悩みました。現在の国際情勢は大変な時期にあります。幸い、心強いことに私の専門は政治学であり、長く研究していたのでこの分野はかなりわかっていました。また、自分の日本語能力、文化への理解があれば、このミッションは成功裡に導けるのではないかと思いました。さらに、これは人生のミッションだと感じ、決心いたした次第です。 質問:どのようなことをなさりたいのでしょうか。 大使:外交の中には3つの重要なことがあります。政治、経済、文化/市民交流ですが、一番目指しているのは経済交流です。昨年、リトアニアが台湾代表部を設立したことで、中国の関係が悪化し、貿易も経済交流もゼロとなりました。リトアニアは中国の代わりに東アジアに市場を開発しようという取り組みが始まっています。韓国、シンガポール、台湾が非常に大事な貿易相手国になり、日本もその一つです。 リトアニアは貿易を中国から東アジアの国への輸出にシフトし、成功裡に進んでいます。リトアニアには「難しい時は本当の友達が分かる」ということわざがあります。日本とは大切な友達関係にあり、今は難しい時期ですが、今後はより経済交流進めたほうがいいと思っています。 質問:リトアニアというと、日本人のほとんどはカウナスの「日本のシンドラー、杉原千畝さん」を思い浮かべますが、リトアニアでもその功績は認められているのでしょうか。 大使:はい。リトアニアの中でも杉原さんのことはよく知られており、両国にとって最も大事な絆だと思います。リトアニアでは教科書にも杉原さんの話を掲載しており、メディアでの知名度も高く、リトアニア人は杉原さんを尊敬しています。 質問:バルト三国と呼ばれていますが、3国の交流はありますか。ソ連からの独立を経て、IT,産業の発達は目覚ましいですが、いかがでしょうか。 大使:リトアニアとはバルト三国の一つですが、この三つの国には共通点は殆どありません。言葉、アイデンティティ、歴史、宗教も違いますので、汎バルト三国としてのリトアニアのアイデンティティは強くはありませんが、しかし、互いに協力していくことが必要です。 旧ソ連時代、バルト三国は経済的には恵まれていました。西側にあるソ連の領土として、ソ連も誇りにも思っていました。独立してからは自由貿易に移行いたしましたので、90年代は大変でしたが、この20年間でバルト三国は非常に発展し、経済面でも進み、民主主義も成功したと言えます。現在、リトアニアはNATOにもEUにも加盟しており、最も東に位置する国となっています、NATOにとっては東を守っている国と言えるでしょう。 しかし、バルト三国は独立を果たしても、ロシアからの長期に亘る経済的な従属関係が続いていました。その理由はエネルギー資源が少ないからです。かなり長い間、ロシアから安いガスを輸入し続けてきました。ですが、リトアニアは10年程前に、大金を投じて国内に、「独立インデペンデンス」というLNGターミナルを作りました。当時はこの建設について周辺諸国からは心無い言葉があったことはありました。ですが、今年になってから、これはとても大きな成功例だと言われるようになりました。リトアニアはロシアからのガス供給には頼っておりませんし、反対にガスを周囲の国々にも売っています。 最近、バルト三国はICTの発達に力を入れています。リトアニアもITECなどが非常に進んでいます。輸出で多くなっているのは、実はパン、チーズ、農産物等ではなく、レーザーです。現在、リトアニアから輸出させる科学レーザーは日本の市場で大きな割合を占めています。医学用のレーザーはとても多く使われています。リトアニアには優れたレーザー技術があり、さらに新しい技術も生まれています。 質問:リトアニアは優秀な科学者を多く輩出していらっしゃいますね。どのような分野が得なのでしょうか。日本との交流はあるのでしょうか。 大使:確かにリトアニアは優秀な科学者を大勢輩出しています。ヴィルジニュス・シクシュニスは遺伝子の研究をしており、ノーベル賞候補になりました。特にライフサイエンスなどの分野においてリトアニアは優れており、この分野でも今後、日本との交流ができるのではないかと思います。 文化交流については、残念ながら新型コロナウィルス感染拡大のためにとどまっています。コロナ感染拡大の直前には、慶応、関西学院、京都大学といくつかのリトアニアの大学と手を組んでの共同研究を行うなど、色々なことが実現できました。今でも共同研究のプロジェクトは、がんの治療に関する分野などでおこなわれおり、日本のAMAD国立研究開発法人日本医療研究開発機構の支援もあります。…