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ジャマイカコーヒーの日本への輸出70周年とメイヴィスバンクコーヒーファクトリーの100周年を祝って ジャマイカ大使館 記念ディナーを開催

二つの大きな記念すべき節目を祝うため、ショーナ=ケイ・リチャーズ駐日ジャマイカ大使は、メイヴィスバンクコーヒーファクトリー マネージングディレクター & CEO ノーマン・W・グラント氏と共に、ロイヤルパークホテルでディナーを開催し、上島達司 AJIJCジャマイカコーヒー輸入協議会会長(UCC上島珈琲株式会社代表取締役名誉会長)、MBCF副会長のマーク・マッキントッシュ氏らコーヒー貿易関係者を招いた。 現在、ジャマイカの高品質なブルーマウンテンコーヒーの生産及び輸出をするMBCFは1923年にヴィクターとエドナ・マンによって創業された。その第一歩を踏み出してから1世紀の間、MBCFはコーヒー生産農家、従業員、農家のファミリーに安定した仕事と生活を与え、最高品質のコーヒーを共に作ることでジャマイカの繁栄を築いてきた。コーヒーは道を開き、ジャマイカの投資、貿易と国家の発展に大きく貢献している。 日本とブルーマウンテンコーヒーの関係は1953年にMBCFが日本のキーコーヒーに三樽のグリーンビーンズを輸出した時に始まる。日本はジャマイカが英国から独立した1962年8月6日同日に国家承認を行い、1964年3月に正式な外交関係を結んでいる。その10年も前からブルーマウンテンコーヒーによる民間外交は始まっており、ブルーマウンテンコーヒーは初代駐日ジャマイカ大使とさえ言うことができる。 ブルーマウンテンコーヒーは日本人に深く愛されてきた。 そうしたマーケットの早期開発は、UCC上島珈琲株式会社の創業者上島忠雄氏とキーブル・マン氏の先駆的ともいえるパートナーシップの締結による。 現在もそのパートナーシップは上島忠雄氏の子息でもある現会長の上島達司氏に引き継がれている。 今年で70年を迎えるブルーマウンテンコーヒーと日本の関係は非常に大きく育ち、1953年の初輸出額は300米ドルであったが、現在では輸出額は年間平均2000万ドル相当に増加している。 日本市場はジャマイカブルーマウンテンコーヒーグリーンビーンズ輸出の75%を占めるほどに育った。 今年100周年を迎えたMBCFは、極上のブルーマウンテンコーヒーの輸出をより増加させていくとともに、コーヒー入りチョコレートなどの新商品の発売も開始し、更なる発展を進めている。創業時からコーヒー農家、生産者、スタッフと共に歩み、ビジネスパートナーを大切にするウィンウィンの姿勢は変わらないが、MBCFはジャマイカを代表するグローバルブランドとなっている。 こうしたウィンウィンの関係を築くために、歴代の駐日ジャマイカ大使が大変な努力を続けてきたことは決して無視できない。現在のショーナ=ケイ・リチャーズ大使もまたブルーマウンテンコーヒーのことを先任者と呼ぶ。 来年ジャマイカと日本のパートナーシップは還暦(60周年)を迎える。もちろん外交関係60周年(還暦)はキングオブコーヒーで祝杯を挙げることだろう。 この度のディナーも、最後は極上のブルーマウンテンコーヒーで締めくくられた。その一杯がどれほどおいしかったことか。これぞブルーマウンテンコーヒー!と誰もが思ったに違いない。 【関連記事】

隠れた名観光地 香川県を訪ねて  金刀比羅宮、書院で最高の日本美術を鑑賞する

香川県にある金刀比羅宮には、美しい建造物、円山応挙ら、日本を代表する絵師による数々の襖絵など、日本の美を満喫する要素がすべて詰まっている。 瀬戸内海に浮かぶ直島を訪れる海外からの旅行者は多いが、金刀比羅宮まで足を延ばす観光客はまだまだ少ない。瀬戸内海を訪れたせっかくの機会、少し足を延ばして、その素晴らしさを見ていただきたい。 金刀比羅宮は、瀬戸内海を望む瀬戸内海国立公園、名勝、天然記念物の指定を受けた景勝の地である象頭山の中腹に鎮まっている。 創建年代は明らかではないが、奈良時代(10世紀初期)にはじまった神仏習合による影響を受け、室町時代頃には金毘羅大権現として幅広い信仰を集めていたとされている。 19世紀中頃以降は、特に海上交通の守り神として信仰されている。荘厳な本殿に参ると、金刀比羅宮が長く見守っている瀬戸内海を見渡すことができる。 ここで紹介する書院はふもとから本殿に上がる中腹にある。 表書院は入母屋造、檜皮葺で、萬治年間(1658‐1660)に建てられたと言われている。 この書院は金毘羅大権現に奉仕した別当金光院が、諸儀式や参拝に訪れた人々との応接の場として用いた客殿という役割を持っていた。金刀比羅宮を訪れる当時の皇族、将軍、大名らを迎える為、その建物の内部の連なる5つの畳部屋の襖には、円山応挙による秀作が残されている。 円山応挙は江戸時代中期の京都画壇を代表する画家であり、円山派の始祖である。 それまでの師による絵手本を見ながら描く伝統的な手法から、実物を観察しながら描く写生の技術を取り入れた。 その応挙が晩年ともいえる50代に取り組み、天明7年(1787年)と寛政6年(1794年)の二度にわたって制作した襖絵「鶴の間」「虎の間」「七賢の間」「上段之間」「山水之間」はそれぞれに違った用途を持つ空間である。 その中でもとくに有名なのは、「水呑みの虎」と「八方にらみの虎」を含む「虎の間」ではないか。 「虎の間」では、応挙は襖16面と言う大きな空間に8頭の虎を描いている。応挙が活躍した時代、日本には虎がいなかった。当時、日本の絵師は虎を描いた絵画、輸入された毛皮や猫を手本として虎を描いた。しかし、応挙は骨の構造を把握することの重要性を説いた絵師でもあった。応挙は中国、朝鮮半島からの虎の画、毛皮などを入手し、解剖学を基礎に虎の姿を想像して描いたとも言われている。そうした当時の事情がある為か、応挙が描いた虎たちの姿は、後年に描かれた虎の姿と比べると、どこか小動物のような可愛らしい印象さえも受けることがある。 応挙の虎たちの様子は様々であるが、いずれも奥行きがない空間に描かれているため、あたかも襖から飛び出してくるような迫力ある動きを見るものに与えている。 川面に顔を寄せて水を吞む2頭の虎は、「水呑みの虎」と呼ばれ、松の木の下で正面を見据えるように描かれた虎は「八方にらみの虎」と呼ばれる。 虎が実在しなかったとは言え、そこには応挙の中で昇華された臨場感に満ちたまぎれもない本物の虎が存在する。応挙晩年の傑作と言われる理由が伝わってくる。 この表書院には、これらの見事な襖絵の他にも見どころが多い。 金刀比羅宮の蹴鞠は香川県の無形文化財に指定されており、表書院前方に広がる庭は蹴鞠を行う会場である。 その中には15メートル四方ほどの平坦な鞠懸(まりがかりー蹴鞠のコート)がある。 その四隅には松、柳、桜、楓の式木が植えられており、それぞれに方角を示している。これらの木はいずれも二股になっており、これは蹴鞠の神、精大明神(しらげだいみょうじん)が宿る依代(よりしろ)であるため、神様が座りやすいようになっているのだという。 金刀比羅宮は、香川県琴平町の象頭山に鎮座する神社として人々の信仰を集め、その土地の人々の心を支えてきた。 更にはこの地の芸術の中心としての役割も担い、表書院、奥書院には伊藤若冲、円山応挙らの江戸時代に活躍した画家の作品が多く所蔵されており、さらには日本で最初の洋画家、高橋由一の作品も多く所有している。…

世界の西洋名画を再現 大塚国際美術館のミッションと世界への貢献

徳島県の鳴門公園内にある大塚国際美術館には、日本のみならず世界からも多くの鑑賞者が訪れる。 この美術館は世界26ヵ国の西洋名画約1000点を陶板で原寸大に再現し、展示している。 名画の制作に使われている陶板は約1300度の高温で焼かれているため、2000年に亘って変色の心配もない。その為、展示されている名画の数々には手で優しく触れることもできる。 それぞれの名画を所蔵する美術館などから許諾を得て再現しているが、画家のタッチ、絵の具の盛り上がり方なども詳細に再現されているのは驚愕だ。 大塚国際美術館の取り組みは、こうした世界の名画を手に取るように間近で鑑賞することもあるが、その他にも、既に失われてしまった名画や祭壇画の復元、修復前と修復後の違いを比較鑑賞できる展示室がある等、美術史上の重要なポイントに大きく貢献していることもとても多い。 大塚国際美術館にはエル・グレコのドーニャ・マリア・デ・アラゴン学院の祭壇衝立も復元されている。 非常に残念なことに、オリジナルの衝立は19世紀初頭のナポレオン戦争で破壊されてしまった。6点あった祭壇画は散逸してしまい、現在は《受胎告知》《キリストの洗礼》《キリストの磔刑》《キリストの復活》《聖霊降臨》の5作品は、スペインのプラド美術館に所蔵されている。 しかし、《羊飼いの礼拝》はルーマニア国立美術館に所蔵されているので、現物を一度にみることは不可能だ。しかし、大塚国際美術館ではこの祭壇画は原寸大で復元され、エル・グレコがその円熟期に描いた通りに展示されている。 ゴッホの《ヒマワリ》の展示も素晴らしい。花瓶に入った《ヒマワリ》をゴッホは7点描いたことでも知られる。現存する6点は以下の美術館等に収められている。 ノイエ・ピナコテーク(ドイツ)、ナショナルギャラリー(英国)、SOMPO美術館(日本)、フィラデルフィア美術館(アメリカ)、ゴッホ美術館 (オランダ)、1点は個人蔵。 幻の《ヒマワリ》と呼ばれる作品は1945年に兵庫県芦屋市を襲った空襲により焼失し、その姿を伝えるのは残された「セザンヌ・ゴオホ画集」であった。大塚国際美術館では東京都にある武者小路実篤記念館の協力でその現存する画集を基に正確に幻の《ヒマワリ》を再現し、ここでは7点全部を一堂に鑑賞することができる。 レオナルド・ダ・ヴィンチが修道院の壁にテンペラで描いた《最後の晩餐》が、長い期間をかけて大規模な修復が行われたことは世界的にも知られている。大塚国際美術館では《最後の晩餐》の修復前と修復後の二点を展示し、その違いを見比べることもできる。 こうした美術史上の大きな貢献を日本の企業が行っていることは素晴らしい。 大塚グループ創立75周年を記念して開館した大塚国際美術館は、2023年3月21日に開館25周年を迎えた。 大塚オーミ陶業の特殊な技術で再現された世界の名画は、これからも世界の人々を魅了し続けることだろう。また、世界に日本の企業のこうした事業を広く知ってもらいたい。 【関連記事】

チリ独立213周年を祝って

チリはスペインからの独立を目指し、1810年9月18日に最初の議会が開催され、それをきっかけとして独立運動が起こった。以降、チリはその記念すべき日を独立記念日としている。 チリでは独立記念日を「ディエシ オーチョ(スペイン語の18という意味)」と呼び、チリ全土でお祝いをするという。 日本でもチリ大使館が独立記念日を祝うレセプションをキャピトル東急で開催した。 この機会には、現在のチリと日本の良い関係を示すように、政府、国会議員などが集まった。また世界中からの外交団、チリが世界に誇る食材関連の企業のトップ、文化、芸術に関わる人々も顔を揃えた。 この独立記念日を祝う為に、チリにある世界最大級の電波望遠鏡であるアルマ望遠鏡と三鷹市にある国立天文台との縁により、三鷹第二中学校合唱団が登壇し、チリと日本の友好の為に澄んだ歌声を聴かせた。 日本でチリと言えば、サーモンに代表される豊かな食材とおいしいワインが思い浮かぶ。 自然に恵まれた豊かな国土では良質の葡萄が実り、上質のワインづくりがなされ、長い海岸を持つ国ならではの漁業も盛んだ。しかし、チリはその豊かな国土を使って、新たな挑戦もしている。 チリでは、恵まれた国土に降り注ぐ太陽光、風力を使っていち早く再生エネルギー、クリーンエネルギーの生産に着手している。 日本とチリはこの分野でも強い協力体制を取っており、エネルギー大臣がチリから来日した際、エネルギーの転換、再生に関わる協力覚書が交わされた。さらにこの持続可能なエネルギーの開発分野での協力は今後も協力になってくるという。 2023年2月、チリは当環太平洋パートナーシップのための包括的かつ先進的な協定(CPTPP)の正加盟国となった。 この貿易協定はチリと日本との長年にわたる経済的連携を強化し、銅、モリブデン、リチウムなどに関わるチリからの輸入を促進し、さらに食品、飲料の供給源としての役割を強化するのに役立つと言える。こうした協定等を結ぶことにより、チリの食品での日本市場における需要はますます高まっていくことが予想される。 独立記念日のレセプションでもチリの名物料理がふるまわれ、物産を紹介する特設ブースにも多くの商品が並んだ。どれもがとてもおいしく、日本人の口に合う。 太平洋を挟んだ遠くの隣人との付き合いはますます深まり、日本は再生エネルギーを含めた恩恵にあずかりそうだ。 【関連記事】