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私の人生は何でも「ある」がモットー。アルールうたこが語る前向き人生の勧め

駐日モロッコ大使夫人として、長い時間を過ごしたアルールうた子を知る人は多い。日本生まれで日本国籍を持ち、モロッコ人外交官のサミール・アルールに嫁いだ彼女は、夫の国の為、常に前向きな貢献をしてきた。当時を振り返り、アルールうた子は「目が回る程多忙だった」という。 駐日モロッコ大使としての任期を終え、駐中国大使としての北京に向かう直前、夫は突然の脳出血で半身不随となり、任期半ばで引退を余儀なくされた。今、二人は東京の中央区で暮らしている。新たな中央区での生活の中、アルールうた子は世界を見てきた「人」として、次の世代に託したいことが沢山あると語る。どんな時も彼女は前向きだ。そんな彼女に今迄の人生とこれからのビジョンを語ってもらった。 質問:日本生まれ日本育ちでいらっしゃいますが、お仕事の経験はおありだったのですか。 私は東洋大学を卒業して小規模なチェーン展開をするギフトショップに就職しました。私が入った会社は中央集中購買システムを導入していたので、問屋を通さずに本社が一括して商品を買い付け、安価で販売することができました。その企業のトップは業界の風雲児と言われた人で、私はマーケティング、販売、バイイングなどをみっちりと学ぶことができました。 その後、米国からトイザらスが日本に進出するという情報もいち早く聞きつけ、私はトイザらスで働きたいと思いました。これは売り込まないといけないと、日本でトイザらスに出資しているマクドナルドに自分の履歴書などを送りました。実働部隊は玩具業界などの小売業から採用することになると考え、必ず私が持っている集中購買も小売りの経験が日本のトイザらスの役に立てると思ったからです。 トイザらスの日本法人の創業メンバーは外資出身のエリートも多かったです。玩具業界出身のスタッフには英語の問題などもあり、難儀したと思います。その点では私は商品を幅広く扱うギフト業界出身だったので、仕入れ、販売の知識の点でも役に立ったでしょう。カリスマ経営者と言われた藤田田さんから「あなたを雇ってよかった」といわれたことがうれしい思い出です。 質問:トイザらス勤務時代にご結婚なさったのですか。 モロッコの外交官、サミール・アルールと結婚したのは1991年です。1964年生まれなので、26歳ちょっとでした。当時はトイザらスでバリバリ働いており、入社の時の約束が最低でも5年は勤めて部下を育てることでした。それなので結婚の事実は会社には黙っていました。ですが、結婚して4年目に当時のモロッコ大使が本国の事務次官になり、夫のアルールが日本での臨時大使になったことがひとつの転機になりました。天皇誕生日、園遊会など夫の公務が増えて会社を休むことが多くなったので、トイザらスをやめて外交官の妻としての使命を務める決心をしました。 質問:モロッコの大使夫人として多くの面白いものを日本に紹介していらっしゃいましたが、それはトイザらスでの経験が役立ったのでしょうか。 はい、そうですね。私はギフトショップ時代から革新的な事を色々とやっていたと思います。与えられた枠組みにとらわれずにオリジナル商品もかなり手掛けました。一例ですが、日本の駄菓子屋さんのパラソルチョコなどはパッケージングの問題があると思いました。パラソルチョコを5つ、6つとつなげて連商品として作り直し、スーパーマーケットでも売れるように工夫しました。1000円のジャイアントパックも、大きなパッケージにすることによって、食品売り場ではないところで同じ商品が売れるということがわかり、実践に繋がったと思います。 そうした経験がありましたので、モロッコの伝統的なタジン鍋、ローズウォーター、ワイン、バブーシュ、塩レモンなどもおしゃれに日本に紹介でき、ブームを創れたと思います。もともとミッションがあると燃えるタイプなんです! 質問:志を持ってはいられたトイザらスですが、お約束の5年がたち、またご主人様のサポートの為に退職なさったのですか。 はい、そういう判断をいたしました。夫が出席する臨時大使としての公的行事には私も一緒に参加しておりました。超多忙な日々でしたが、私は自分のキャリアを諦められなかったのでしょうね。日本の玩具メーカーの世界進出なども手伝っていました。臨時大使はいつ任期が終わるかわからないので、いつでも日本から出ていく体制を取っていなければいけませんでした。ですので、決まった企業で働く、学校に通うということは難しかったです。 質問:ご主人が突然モロッコに帰任されましたが、どれぐらいモロッコにいらしたのですか。 私は日本で出産し、モロッコで子供を育てたいと思っていました。 しかし、わずか10か月後、夫が駐タイ大使に就任し、突然バンコクに転勤になりました。 モロッコに帰国後すぐに国王陛下が亡くなられ、夫は国葬の準備で大忙しでした。 新しい国王の即位に伴い、夫はほとんど家に帰ることができませんでした。 質問:初めてのモロッコでの暮らしに戸惑うことはなかったのでしょうか。 私にとってモロッコ暮らしは初めての経験でした。私は東京の一般家庭の出身なので、まず使用人の扱いがよくわかりませんでした。夫からは「感情が入るので、使用人の名前だけ知っていればいい」と言われました。使用人は金品を盗むことはなくても、歯磨き粉や小麦などの生活物資が無くなることは多かったです。親族からは留守の間も気を付けてと言われていました。使用人に対し、いつも疑いの目をもって接することがカルチャーショックでした。 モロッコには薬品なども買えない人達がおり、野草、生薬の知識が物凄いということも知りました。恨みを買うようなことがあると、煎じた薬草を飲まされて具合が悪くなることがあるから気を付けなさいとも言われました。先ほど申し上げたように、日本の普通の家庭で育った私には、考えられない暮らしでした。 質問:それからタイに転勤なさって、どうなさっていらしたのでしょうか。…

若い才能が集まり、チェロ・フルート・ピアノによる室内楽コンサート開催〜駐日オランダ王国大使館〜

アマチュアのチェリストでもあるジョーン・ミッチェル・ファン・デル・フリート駐日オランダ大使夫人はこの度、東京在住のチェリスト、橋本ジェシカと共に海外と日本にルーツをもつ児童、学生による室内楽コンサートをオランダ大使館公邸で開催した。 コンサートに出演した児童・生徒たちは日ごろの成果を発表する機会に恵まれたことに感謝し、緊張しながらも多くの聴衆を前にのびのびと演奏を披露した。当日のプログラムはバロック、クラシック、現代音楽を取り入れ、バラエティ豊かに組まれていた。 最初に演奏された伝統的なアイルランド民謡「モ・ギレ・マー(すばやき戦士)」は、フルーティストのデイブ・ドリュー(ブリティッシュ・スクール初等音楽・舞台芸術責任者)とアネリーゼ・チャン(ブリティッシュ・スクール、ピアノ教師)と共に11人のチェリストが協演した。 続いてはアルベルト・ピッツォ作曲のソロピアノ「カテドラル」というノートルダム聖堂に捧げられた崇高とも言える作品が演奏された。この曲は卒業生で現在は東京大学に通う 井上ルークアーサー龍太郎 がピアノで表現したが、一瞬、会場内に息をのむような空間を作り出していた。 また、このコンサートのハイライトには、チェロ・アンサンブル「Prelude a la nuit」が選ばれた。この曲はブリティッシュ・スクール・チェロ・アンサンブルの指揮者としても活躍する佐藤心音がこのコンサートのために作曲した。 終演後、ピーター・ファン・デル・フリート大使夫妻から出演者への祝辞があり、それに続いてジョーン夫人手作りのクッキー、カップケーキ等による楽しいティータイムとなった。 好天にも恵まれ、オランダ大使館の広いお庭で遊ぶ子ども達の姿も見られた。ティータイムでの手元に置かれたナプキンはバニーの形におられており、皆が長く寒かった今年の冬がやっと終わり、春が訪れていることを感じさせた。 日本には数多くのインターナショナルスクールがある。この度は、アメリカンスクール・イン・ジャパン、ブリティッシュ・スクール・イン・ジャパン、聖心インターナショナル・スクール、セントメリー・インターナショナルスクールなどで学ぶ児童、学生とその卒業生が集まった。 インターナショナルスクールで学ぶ児童、学生にとっても、こうして他校と交流する機会は決して多くはないので、互いの交流をより深める上でもまたとない機会となった。 ジョーン・ミッチェル・ファン・フリート夫人と橋本ジェシカは、「音楽の持つ力」に焦点を当てたイベントを何度も開催してきている。 中でもロシアのウクライナ侵攻による被害者を救済するために昨年4月に企画したチャリティーコンサートは、大きな成果を出した。今、最も人気のあるチェリスト佐藤晴真をゲストに迎えたこのコンサートでは、230万円に上る寄付金を集めることができた。この募金は「国境なき医師団」等を通じて、全額ウクライナへの人道的支援に寄付された。 【関連記事】

ブルガリアの春の訪れ「マルテニツァ」を身に着け「ババ・マルタ」の日を祝う

駐日ブルガリア大使館は3月1日に渋谷区立宮下公園パークセンター前でブルガリアの春を迎える祭り「ババ・マルタ (3月のおばあさん)」と赤と白のお守り「マルテニツァ」を紹介した。 ブルガリアでは3月1日は「ババ・マルタ」の日とされ、幸運のお守りマルテニツァを交換し、春の訪れを祝い、互いの健康と幸せを祈る。 この幸運のお守りマルテニツァの起源は7世紀、第一次ブルガリア帝国建国の時代にまで遡ることができる。当時、ブルガリア軍がビザンチン軍との戦いに勝利した際、勝利を知らせる手紙をハトの足に白い糸で結んでおくった。しかしその鳩は手紙を届ける間にビザンチン軍の攻撃にあい、手紙を付けた白い糸はハトの血で赤く染まったという。この出来事がこの行事のきっかけになったと言われている。 3月1日の「ババ・マルタの日」は現在も国民の祝日となっており、その2日後の3月3日にはオスマントルコからの解放を祝うブルガリア解放記念日となる。 3月のブルガリアは忙しい。色々な場所でイベントが開催され、美しい民族衣装で踊る人々の姿も見ることができる。今年は3月1日に宮下公園でもブルガリアの文化をそのままに、楽しいイベントが開催された。多くの在日ブルガリア人も集まり、美しい民族衣装を身に着けたダンサーがブルガリアのダンスと歌を紹介した。 【関連記事】

リトアニア独立を祝って「自由とは勝ち取るもの」

2023年、在日リトアニア共和国大使館はリトアニアに関係する人々と共に105回目の独立記念日を祝った。 リトアニアと日本の交流の歴史は古く、在日リトアニア大使館は札幌、千葉、大阪、また、駐リトアニア総領事であった杉原千畝の出身地でもある岐阜にも名誉領事館を持つ。現職のオーレリウス・ジーカス大使は早稲田大学、金沢大学への留学経験もあり、完璧な日本語を話すリトアニアきっての日本通でもある。ジーカス大使は着任以来、さらに日本各地での交流などを積極的に進めていることから、この独立記念レセプションには、リトアニアに関係する多くの著名人が日本各地から出席した。また、ラーム・エマニュエル駐日米国大使をはじめとする各国大使、リトアニア友好議員連盟で活動し「リトアニア功労十字勲章」を授与された中曽根弘文参議院議員らも姿を見せた。 このレセプションの冒頭のジーカス大使による挨拶では、「自由とは、与えられるものではなく、勝ち取るものだ」という、リトアニアの人々の気持ち、精神を表す力強いメッセージが述べられた。また、リトアニアより来日中のビータウタス・ミタラス国会副議長からは、「リトアニアと日本を結ぶ友好の絆が、現在直面している課題の解決に貢献することを願っている」というメッセージが述べられた。 その後、リトアニアと日本の二国間関係の発展、日本におけるリトアニアのプロモーションに多大な貢献をした人々への表彰式も執り行われ、在日リトアニア共和国大使館感謝状がジーカス大使より授与された。 その中でも最も印象的だったのは、杉原千畝がリトアニアでユダヤ人の出国のためにサインしたビザの原本も手渡されたことだ。当時、カウナスの日本総領事館に勤務していた外交官の杉原千畝と、オランダの外交官ヤン・ツバルテンダイク領事代理が1940年にカウナスで発給した「命のビザ」のオリジナルが、今年の独立記念日直前に在日リトアニア大使館に届いた。多くのユダヤ人をすくった「命のビザ」の貴重なオリジナルは、杉原千畝が生まれた岐阜県八百津町にある杉原千畝博物館で今後、展示される。リトアニアと日本を結ぶ友好の証としても杉原千畝の功績とその精神は決して忘れられない。 現在のリトアニアは、明るい国民性と優秀な人材に恵まれ、力強く発展をし続けている。かつて旧ソ連からの独立においてリトアニア独立革命を指導し、独立回復を遂げた後には最高会議議長として同国の国家元首を務めたヴィータウタス・ランズベルギスが熾烈な独立回復への道、政治闘争、文化への思いを取材したドキュメンタリー映画「ミスター・ランズベルギス」も現在上映されている。美しい国土は旅行者にとってもとても魅力的だ。今、独立記念日を祝うとともに、より深くリトアニアについて知ってみたい。 【外部リンク】 【関連記事】 駐日リトアニア共和国特命全権大使オーレリウス·ジーカス閣下に聞く「これからのリトアニアと日本」