インタビュー:セルギー・コルスンスキー駐日ウクライナ大使
東欧での戦争が激化する中、世界は先の見えない期待を持ちながら様子を見守っているのが現状だ。ロシアによるウクライナ侵攻は長期に亘ることとなり、多くの議論を引き起こしている。日々、ロシア、ウクライナ双方からの情報が行きかっている。 コルスンスキー駐日ウクライナ大使は、科学者になるべく教育を受け、そのキャリアをもって外交官に転身した。その大使はウクライナでのロシアによる侵攻をどのように見ているか、また、ウクライナが世界に望む支援とは何か、この戦争が最終的にどこに行くのかといった内容をこのインタビューの中で語っている。 短いインタビューであったが、コルスンスキー大使の歩んできた道、戦禍の生活、ウクライナと日本の関係、将来の平和への希望などに多岐に亘り、とても興味深いものとなった。 ここでは深刻なテーマもお聞きいたしますが、その前に大使のキャリアと外務省に入られた経緯についてお聞かせ願えますか。 キーウご出身でいらっしゃいますね。 はい、我が家は父も祖父も私もキーウで生まれました。 生まれた頃はソ連時代でしたので、私は人生の29年間をソ連で過ごしたことになります。キーウ国立大学を卒業し、応用数学の博士号を取得した後に、研究者として10年間勤務しました。 そうして働いている中で1991年を迎えました。この年はウクライナが独立した年です。 当時、私は私はウクライナ国家科学技術委員会に招待されておりました。その委員会は英語を話す人を探していたことがありました。私はこの委員会には3年程在籍し、世界レベルの学術誌に約50件の研究論文を発表しておりました。そんなときに外務省の外交官であった友人から電話がかかってきました。友人はパリに向けて出発する直前でしたが、その電話の内容は、当時のウクライナ外務省は信じられないほど小規模で、大臣から運転手までを含めてもたった37人しかいませんでした。その為、誰か後任となる人が必要と言っていました。 国家は独立すると大使館を開設する必要がありますので、人員が必要でした。また、外交関係を樹立する必要もありました。 最初に友人が電話をかけてきたとき、私は外交の経験がないということは伝えはしました。しかし、その後に外務省を代表して科学教育、技術、ソフトパワー関連の協力に重点を置いた同じ任務を続けることになると伝えられました。 外務省外交関係研究所での短期集中コースを終了し、私は外交官となり、科学担当公使としてイスラエルに駐在しました。イスラエルが初の赴任地になりました。イスラエルで3年間駐在し、その後はワシントンD.C.で5年間、そしてトルコで3年間駐在し、ミッションを行ってきました。 その後に本国に戻って外交アカデミーの理事長を3年間務めた後、駐日ウクライナ大使に任命されました。このことは大変うれしいと思っています。 日本はウクライナにとって非常に重要であると同時に、文化的にもとても興味深い国です。いままで 4か国に駐在を任命されるのは非常に異例であったこともあり、外交官として幸運であったと思っています。 先日、岸田総理がウクライナを訪問されました。 日本はアジアで最初にウクライナへの公的支援に踏み切った国の一つであるということを考えると、この関係の特殊性をどう見ていますか、また今回の訪問についてどう思いますか。 これにはとても驚きました。 大使として着任したときにも、ウクライナでも日本のことをどれだけ知っているかを実感しました。 ウクライナ人は日本に次いで世界で2番目に多くの寿司を消費しています。 ウクライナ人は黒澤明、渡辺、北斎の作品をよく知っています。 ウクライナではすべての都市に武道のトレーナーがおり、日本語を学べる学部がある大学は全国で12校あります…