Author: Hersey Shiga

Editorial Team
  • ベルギービールウィークエンド 新宿で開催

    冬でもやっぱりベルギービール おいしいビールを飲んで、特別なひと時を過ごそう! 今年で13回目を迎えるベルギービールウィークエンドが開催される。ベルギーにはなんと379カ所ものビール醸造所があり、1,500種類以上のビールが造られている。2016年には、「ベルギービール文化」がユネスコ無形文化遺産にも登録された。 ベルギーでは、毎年9月の第一週末に、ベルギーの首都ブリュッセルで『ベルギービールウィークエンド(BBW)』が盛大に開催される。開催場所は世界遺産に指定された美しいグランプラス広場だ。ここに世界中のビールファンで賑わう。 そんなベルギーのビール文化を新宿で再現! https://belgianbeerweekend.jp/shinjuku 開催日時:12.6(火)〜12.11(日)平日 16:00〜22:00※ラストオーダー終了30分前土日 11:00〜21:00場所:新宿住友ビル 三角広場

  • オマーンと日本 国交樹立を祝って第52回オマーン・スルタン国ナショナルデーレセプション開催

    中東の親日国オマーン·スルタン国(以下オマーン)と日本はその外交関係を1972年に樹立し、今年は50周年目を迎える。しかし、実際の二国間交流は400年も前に遡る。それはレセプションの冒頭での駐日オマーン国特命全権大使モハメッド・サイード・ハリファ・アル・ブサイディ閣下の挨拶からも理解できる。また、オマーンという国は先見の明を持ち、エネルギーなどに対しても非常に先進的であり、これからの人材育成への投資を惜しまない姿勢を世界に示していることにも深い感銘を受けた。 現在、オマーンでは、新国王ハイサム·ビン·ターリク国王陛下が即位し、国王自らがリードする「オマーン·ビジョン2040」の目標達成に向けて邁進している。この目的は多様な経済部門の成長を促進することにある。 オマーンは石油、天然ガス等の天然資源に恵まれてはいるが、現在はクリーン·エネルギーを重視し、そのシフトに向けた取り組みも開始している。2022年10月にはオマーン政府は2050年温暖化ガス排出量ゼロを目指しており、さらに再生可能エネルギー用に約5万平方キロメートルの土地を割り当て、グリーン水素関連事業には21兆円規模の投資の入札を行う計画も行うと発表している。 オマーンは学部卒業生全体に占める理工学部の卒業委生比率は世界一だ。オマーン政府による学生一人当たりの政府支出指数は世界第3位であり、こうした手厚い支援と学生への投資が至るところで実を結んでいる。 また、オマーンは観光資源にも恵まれ、安全で犯罪が少ない国でもある。こうした好条件からも、今後は日本からの観光客が訪れることが大変期待されている。 そうしたオマーンと日本の深い親交もあり、今回のレセプションには日本政府関係からも多くの議員などが参列した。山田賢司外務副大臣を始め、日本オマーン友好議員連盟江藤征士郎名誉顧問、山口那津男公明党代表、遠方からはビデオメッセージで山梨県長崎幸太郎知事が顔を揃え、祝辞を述べた。 会場となった総大理石造りのオマーン大使館とその庭には、オマーンの住居を思わせるテント作りのリビングルームが設置され、レセプションの招待客はそのテントの中、あたかも我が家で過ごすかのようにリラックスし、オマーン式のお茶、デザートと会話を楽しんだ。 料理も美食の国オマーンらしく、贅をつくした品々が並んだ。羊の丸焼きなど、日本ではなかなかお目にかかれないアラブ式の料理も多く、どれもが皆美味しく、日本人の口にあった。ついつい食べ過ぎてしまうほどの素晴らしいランチだった。きっと料理上手でも知られる大使夫人によるアレンジ、アドバイスがあったことだろう。 オマーンと日本の絆は長く、強い。これからもさらに良好な関係を発展させ、経済交流、文化交流にも大きな結果をのこしていけることを願いたい。

  • 2022年いけばなインターナショナルフェア

    今年もいけばなインターナショナルフェアを開催開催日時:2022 年 12 月 12 日(月) 11:30-15:30開催場所:ロイヤルパークホテル 3F (2F 受付)中央区日本橋蛎殻町 2 丁目 1 番 1 号Tel : 03-3667-1111地下鉄 半蔵門線 水天宮前駅直結抽選券付きチケット(3,000円)は当日券(数に限りあり)もあり 開催要項および注意事項:・いけばな各流派お家元によるいけばな展・ 各国大使夫人によるインターナショナルバザー・ 各国大使館、その他のバラエティショップ・…

  • 大使が語る南アの民主主義国家としての歩みと日本との関係

    ルラマ・スマッツ・ンゴニャマ駐日南アフリカ共和国大使インタビュー 南アフリカ共和国の発展はとても興味深い。現在、南アフリカは、新型コロナウイルスの感染拡大、グリーン経済への移行という課題の中にある。ルラマ・スマッツ・ンゴニャマ駐日南アフリカ共和国大使は、このインタビューの中で南アフリカが行っている具体的な取り組みについて、さらに日本との経済及び文化的つながりについても自身の考えも述べている。 駐日南アフリカ共和国大使としてのミッションは何でしょうか。 大使としてのミッションは、まず南アフリカと日本の間に強固な外交関係を築くことです。そのミッションは、私がこの職務に就くかなり前に構築された関係を土台としています。両国の間に包括的な外交関係が結ばれたのは、1994年以降でした。1995年7月にネルソン・マンデラ元大統領が来日し、アパルトヘイトとの闘いに貢献した人々を称賛しました。マンデラ元大統領は、ロベン島に収監されていた時、広島の原爆の歴史について読んでいます。マンデラ元大統領はなぜ原爆が投下されたのか、どのような影響があったのか、日本はどのように復興したのかを理解したいと考えたからです。その後、南アフリカは1989年に、世界で初めて自主的にすべての核兵器を廃棄するという決断をするに至りました。 現在、南アフリカと日本の経済外交を強化することを重視しています。政治的レベルでの協力は、二国間、多国間のプラットフォーム双方において非常に強力と言えます。例えば多国間においては、南アフリカは国連安全保障理事会(UNSC)の包括的な改革を強く提唱し、国連を代表するような構成にすることを求めています。日本も同様に、国連安保理の改革を訴えています。アフリカ開発会議(TICAD)に関連しては、近年達成された多くの成果を脅かす一連の課題に取り組むアフリカ大陸全体の経済成長、デジタルへの移行、グリーンへの取り組み、雇用創出を促進するため、日本からの包括的支援となる取り組みを歓迎しています。また、今年のTICAD(第8回アフリカ開発会議)はチュニジアが主催国となりました。南アフリカからは国際関係・協力大臣のナレディ・パンドール博士が代表として参加しました。 この会議では、経済、水と保健衛生、インフラ、観光、科学技術などの分野でいくつかの協定が結ばれました。これらの協定は、日本とアフリカ大陸の協力関係の強固さを明確に示すものです。また、日本貿易振興機構(JETRO)と国際協力機構(JICA)が、国連開発計画(UNDP)及び国連工業開発機関(UNIDO)と共に、日本とアフリカの民間企業間の貿易と投資を強化することを目指した新しいパートナーシップも結ばれました。 日本は、特にトヨタ、日産、三井、日立など多くの企業を通じて、南アフリカ経済に多大な投資を行ってきました。これらの投資についての私の責務は、南アフリカ政府が設定した目標を達成し、双方の経済的利益を最大化することです。しかし、私の使命はそれにとどまらず、人と人との交流や観光の促進も大切です。多くの日本人が南アフリカを訪問してみたいと考えています。しかし、南アフリカの文化や観光、また何が投資先として得られるか、殆ど知られていないのが現状です。 2022年は南アフリカと日本の関係が大きな成功を収めた年でした。2023年はどのような計画をお考えでしょうか? 先日、第13回 日・南アフリカ・パートナーシップフォーラムが日本で開催されました。この時に、南アフリカはパンドール南アフリカ国際関係・協力大臣と林芳正外務大臣が議論を交わしましたが、それはとても勢いのあるものでした。ぜひともこの勢いを持続させてまいりたいです。 また、南アフリカは2022年11月28日から30日まで、Green Hydrogen Summit (グリーン・ハイドロゲン・サミット)をケープタウンで主催するにあたり、シリル・ラマポーザ大統領から岸田総理に招待状が送られました。日本は技術を持ち、南アフリカには豊かな資源があることから、グリーン水素は両国の協力関係を強化する重要な分野と考えられています。両国はグリーン水素の分野でリーダーになることを目指しており、南アフリカはこの分野で日本との協力関係をより緊密にしていきたいと考えています。 例えば、南アフリカに本拠を置くエネルギーと化学の総合企業、サソールは世界各地でエネルギープロジェクトに従事しています。グリーン水素の分野において、日本では伊藤忠商事とともにパイオニア的な存在です。 南アフリカと日本の関係をどのように発展させていきたいとお考えですか? 日本とのビジネスでは、日本は一国につき一品目ずつ市場アクセスの交渉を行っています。そのため、複数品目の交渉を試みることは困難です。日本は常に量より質を重視するため、交渉は長期化します。 以前、新型コロナウイルス感染症が多くの産業、特に観光産業に影響を与えたことがありますが、その困難な時期はどのように乗り越えていらしたのでしょうか? 南アフリカの観光産業は新型コロナウイルス感染症のパンデミックによって大きな影響を受けました。しかし現在は新型コロナウイルスの感染者数は継続して減少しており、国家として再び観光ビジネスにむけて開放し、世界中からの旅行者を受け入れる準備が整っています。南アフリカへの日本人旅行者数(観光、ビジネス、その他)は、2019年の約28,388人から2020年には5,236人、2021年には1,194人と激減しました。南アフリカは、再び観光ビジネスにむけて開放され、世界各国からの旅行者を迎える準備が整ったというところです。 新型コロナウイルス感染症が観光産業に与える影響を軽減するため、南アフリカ観光局は、関連するステークホルダーと協力して 「観光セクター復興計画(Tourism Sector…

  • 第68回アルジェリア·ナショナル·デー·レセプション開催 – 旧交を温め合う素晴らしいひと時

    11月8日、広尾の駐日アルジェリア大使公邸において、2022年度のアルジェリア·ナショナルデーレセプションが開催された。2022年2月に天皇陛下に信任状を奉呈したラルビ・カティ 駐日アルジェリア民主人民共和国特命全権大使にとって初めてのナショナル·デーレセプションとなった。 冒頭のあいさつでカティ大使は、日本は極めて早期にアルジェリアの独立を認めたことに深い感謝を述べた。アルジェリアの独立は民族にとっての長年の悲願であり、その長期に亘る闘いでは多くの犠牲もあった。そうして勝ち取った独立をいち早く認めた日本はアルジェリアにとって「昔からの信頼できる友」と呼べる間柄に違いない。 日本政府を代表して、髙木啓外務大臣政務官が日本政府を代表して出席し、祝辞を述べた。「アルジェリアの独立以降、両国が心温まる人的交流を重ね、良好な二国間関係を築いてきた歴史を振り返り、次の10年間を更に素晴らしいものにすべく投資・経済分野を始めとして両国間の交流を一層促進したい」という祝辞からは信頼できる友と共に歩む次の10年が見えてくる。 このレセプションには、アフリカ·中近東だけでなく、ヨーロッパ諸国等を含む世界中の大使館から多くの大使、大使夫妻が集まり、アルジェリアのナショナル·デーを祝った。 広尾にある駐日アルジェリア大使公邸は、アルジェリアの建築様式をそのままに伝えている。外部は美しいタイルで飾られ、内部には昔のアルジェリアの邸宅そのままに、中庭もある。窓は美しいアルジェリアの装飾が施され、内部もアルジェリアの雰囲気をそのまま日本に伝えている。 ここでは、日本では聴く機会が少ないカヌーンというアラブ琴を含むアラブの楽器によって、アルジェリア国歌、君が代も演奏された。ファヒマ夫人をはじめとするアルジェリアの女性もみな美しい民族衣装に身を包んで、招待客をもてなした。 クスクスに代表されるアルジェリアの食事はとてもおいしく、日本人の口にあう。今年は、カティ大使夫妻の計らいにより、とても多くのメニューが用意された。こうしたとてもおいしい食事のためか、招待客はいつもより長く滞在し、日本にある「アルジェリア」で、友との旧交を深めたようだ。 関連記事 大使の食卓(1) アルジェリア アルジェリア独立60周年記念インタビュー 国際文化交流パーティ”SUMO”開催 日本の国技を楽しむ

  • チリ日本国交樹立125周年記念レセプション開催

    太平洋を挟んだ隣国との長く、深く、おいしい友好を祝う 2022年、チリと日本は、国交樹立125周年を迎え、11月4日にはホテルニューオータニで盛大な記念レセプションが開催された。 この記念すべき式典は、三鷹市第二中学校合唱部による両国の国歌斉唱によって開始された。高円宮親王妃久子殿下のお成り、西村明宏環境大臣の祝辞、武井俊輔外務副大臣、秋本真利外務大臣政務官ら、多くの国会議員の顔もみられ、チリと日本の関係がいかに良い関係であるかが深く感じられた。 チリと日本はともに南北に細長い地形を持つ国であり、山と海に恵まれている。確かに地理的には遠いが、日本にとってチリは太平洋という大きな海を挟んだ隣国にもなる。その隣国チリとの交流の歴史は125周年という年月以上に長く、その交流の第一歩は1885年に始まったとされるチリへの日本人の移民にも遡ることができる。 冒頭、リカルド G. ロハス駐日チリ特命全権大使によるスピーチは大変印象的であった。ワイン、サーモン、果物など、日本の食卓を彩るチリ産の食材については、日本人なら誰もが知り得ることだ。日本中、どの地域のスーパーマーケットに行っても、多くのチリ産の食材が売られている。チリからの冷凍鮭、鱒、ウニの日本への輸出高は世界一位であり、チリ産のワインも非常に多く輸出され、日本の「家飲み」には欠かせないアイテムだ。日本食の代表である寿司に必要な多くの食材をチリは支えていると言っても過言ではない。 両国は貿易の活性化のために2007年に経済連携協定を結んでいる。しかし、なによりも重要なことは、チリの産物がおいしく、高品質であり、そのレベルが常に一定に保たれていることだ。 125周年という長い歴史を誇るチリと日本の外交は、民間が支える「おいしい食卓外交」がメインではないだろうか。 このレセプションでも、チリが世界に誇るおいしい食材を使った料理、チリ産ワインが提供された。 よく女性が好きな男性を魅了するには「胃袋を掴む」ことが大切と言われる。日本はどうもチリというラテン美女に「胃袋を掴まれたてしまった」ようだ。 これからもチリ産の食材が日本の食卓を豊かにすることに期待したい。

  • 大相撲オランダ大使館場所開催

    日本の国技を知ろう! 日本に駐在する外交官には相撲ファンは多い。しかし、「勝ち負け」だけで、相撲の歴史、美学、様式美などについてはどれだけ知られているのだろうか。 駐日オランダ大使のジョーン·ミッチェル·ファン·デル·フリート夫人は、「日本文化を学ぶ」一環として、EU諸国の大使夫人、関係者を招待し、「相撲を学ぶ会」をオランダ大使公邸と庭を使って開催した。 このイベントに協力したのは、超党派の「大相撲の発展を求める議員連盟」のアドバイザーを務め、自らも力士の経験をもつ永井明らだ。ジョーン夫人のリクエストに応じて、英語で相撲を学ぶ資料を作成し、実技は株式会社シリウスが企画した。 会場となったオランダ大使公邸の内部には、化粧まわし、力士の浴衣、番付表などのアイテムが展示された。ジョーン夫人による英語の相撲プレゼンテーションでは、相撲の歴史から始まり、力士の生活、髪型、服装、親方とおかみさん、食事など、多岐にわたった。 ここで一通り相撲について学んだあとは、庭にでて全員で四股を踏むなどの動作を取り入れた「相撲健康体操」を体験した。 続いては、元力士二人による相撲のぶつかり稽古、真剣勝負が披露された。この迫力には参加した全員が圧倒された。 やはり相撲は実際にとって見なければわからない。そのため、ピーター·ファン·デル·フリート駐日オランダ特命全権大使がクッションの入った「相撲スーツ」をまとい、頭に大銀杏の鬘をかぶって元力士と一線を交えた。その様子は非常に面白く、大使の素敵なユーモアのセンスが光る。ここは文字で説明するよりも、大使のTwitter公式アカウントからぜひご覧いただきたい。 こうしてひと汗かいた後は、相撲部屋直伝の「ちゃんこ鍋」を全員でいただいた。初めて食するちゃんこ鍋はとてもおいしく、楽しく運動した身体にしみわたるようだった。 もう一度ちゃんこ鍋を食べたい、ディナーにまた温めて、、、といったリクエストが出る中、初のオランダ大使館場所は全員の汗と笑顔の中、無事終了した。

  • 27年ぶり、モイセーエフバレエ団来日

    パリ・オペラ座のエトワールでもあり、ローラン·プティのミューズだったドミニク·カルフーニをはじめとする世界のトップ·バレエダンサーは、モイセーエフバレエを見たことで踊る楽しさに触れ、バレエダンサーを目指したと答えている。 20世紀に、バレエ界は多くの優れた振付師の登場があった。前出のローラン・プティ、モーリス・ベジャール、ジョン・クランコらと並んで、このバレエ団の創設者イーゴリ・モイセーエフも、間違いなく偉大な振付師の一人だ。 1906年生まれのモイセーエフは14歳でバレエを始めた。決して早いスタートではなかったがめきめきと頭角を現し、後にボリショイ・バレエの芸術監督の候補にも挙がる。 モイセーエフが学んだクラシックのバレエには各所にハンガリーのチャルダッシュ、スペインのボレロ、ポーランドのマズルカなどの民族舞踊的要素が取り入れられている。そうしたキャラクターダンスと呼ばれる舞踊はクラシックバレエ界のトップダンサーたちによって、洗練された踊りとして紹介されている。モイセーエフは特にこのキャラクターダンスを愛し、後にロシア各地を歩き、その地で色々な民族舞踊を採取して行ったという。 1936年、当時のソ連各地の舞踊を集めたフェスティバルがモスクワで開催され、翌年、モイセーエフは自らの夢を実現させる。1937年のソ連国立モイセーエフ民族舞踊団の誕生だ。 現在に続くこのバレエ団の面白さは、スターと呼ばれる存在がいないことではないか。クラシックバレエの教育を受けていないダンサーもモイセーエフに才能を評価されればこの民族舞踊団に所属し、アンサンブルの一員となって行く。優れたソリストであっても、そのアンサンブルの中で自らの役割を果たしていく役割となって行く。 今回の日本公演でも、イーゴリ・モイセーエフの精神が今もこのバレエ団には息づいていることを感じることができた。一人もスターはいない。しかし全員がスターなのだ。 その一糸乱れぬアンサンブルは、劇場の5階席から見ても美しい。上から見ても乱れないアンサンブルの美しさが際立っていた。どの踊りも、各地の民族の文化の豊かさを表現し、その地域とその民族への敬意さえも感じられる。見ている観客はアッという間にモイセーエフの世界に引き込まれ、いつのまにか心はロシア各地を旅するようだ。 日本公演でも最後に演じられた「水兵の踊り:艦上の一日、ヤーブロチコは圧巻だった。水兵のセーラー服というシンプルな舞台衣装も、その動きをかえって隠すことなくはっきりと伝えることに役立っている。3人程度の小規模なアンサンブルが繰り返され、最後には全員が一緒になって踊る演出、舞踊は見事としか言いようがない。圧巻だった。 今回の日本公演で演じられた舞踊はすべてモイセーエフ自身の振付によるものだ。月日は流れ、世界は変わって行っても、モイセーエフが目指したものはゆるぎない。

  • カナダ大使館開催 「グレン・グールド・トリビュート 生誕90年、没後40年を迎えて」

    カナダ、トロント出身のグレン・グールドは、史上最高のピアニストの一人であり、カナダが世界に誇る思想家、音楽家でもある。そのグールドが脳卒中でこの世を去ってから今年は40年目となる。もし彼が生きていたら今年は90歳になっていたことだろう。 在日カナダ大使館では命日にあたる10月4日にグールドに縁のあるゲストを招き、トリビュート・イベントを開催した。 グールドは生前、いくつかの特別な「何か」でもかなり注目を集めることになったピアニストでもある。たとえば、バッハの演奏だ。その時に彼が座るピアノの椅子もその一つだ。父親の手作りだという椅子は、とてつもなく低く、背中を丸めなければ鍵盤とのバランスが取れない。その独得の姿勢でのグールドの演奏姿は忘れられない。さらには演奏のときは、鼻歌まで歌っていたことも多々ある。 彼は早期にステージから引退し、新しい自分の世界を録音というそれまではクラシックの音楽家には歓迎されていなかった「ツール」に力を注いでいく。今までいわば瞬間芸であった音楽を、「永遠に残る」という新しい分野に導いていった。また、グールドは柔軟な考えを持っており、今でいうLGBTなどの新しい社会の形を受け入れてきた。今の時代を作る先駆者としても知られている。 グールドとは、音楽の天才である他に、10年、20年先を見ていたのではないか。彼の死後40年を経た今、改めて今を生きるひとびとはすでに40年前に世を去ったこのピアニストの芸術性、人生を高く評価している。 このトリビュート·コンサートでは、グレン・グールドゆかりの人々のトーク、演奏もまたとても素晴らしいものであった。しかし、ここで特筆すべきは、新しいテクノロジー、AIを使って、グールドの演奏を再現してみせたことだ。このAIシステムは、AIと人間の共創の可能性を追求するためにヤマハが取り組んだDear Glennプロジェクトによって開発された。 このプロジェクトによって、グールドが演奏した曲の傾向をもとに、AIが再解釈した演奏が披露された。つづいて、グールドが生前演奏したことがなかったクープラン、テレマン、フィッシャーといった作曲家による小品も演奏された。 最新のテクノロジー、録音技術を好んだ彼は、今、生きていたら、どんな演奏をするのだろうか。カナダ大使館とヤマハのコラボにより、ファンが望んでいた回答の一つが示された素敵なトリビュート・コンサートだった。